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特別。

とても小さな田舎の町。
良くも悪くも人との距離が近い。
あっという間に噂が広まる。
それは良いとされる噂も悪いとされる噂も。


「◯◯君△△大学に進学だって、凄いわねー」
「◯◯ちゃん家は△△らしいから近づかない方がいいわよ」
「○○さんは△△君と最近付き合い始めたんだってあなたも早く相手が見つかるといいね」


興味深いものから正直どうでもいい内容のものまで千差万別である。
流される噂は真実もあるが、
誤った憶測話や人づてに聞いた話を誇張して表現され、大枠から脱線し、
ついには独り歩きし宙を舞っている。

さらに厄介なのが、
拡める人自身の感情、
どう捉えたかも反映されるため、
ないはずの良い悪いという
誰かの主観が情報に歪みを持たしている。



私は「良い噂を流される自分像」という虚像を
追い求めていた過去を持っている。

幼い頃の私にとって
「良い噂をされる、表彰される、褒められる事」が生きがいだったように思う。

その思いの根底には、
「特別じゃないと見て貰えない、愛して貰えない」
という強迫観念の様なものが強くあったのだろう。

歳の近い兄弟(姉妹)に囲まれて育ち、
年上兄弟は初の子どもとして、年下兄弟は末っ子として可愛がられていたが、自分は中間子で放っておかれたという感覚がある。

兄弟が怒られているのをみて自分の行動を律して
子ども時代に
"子どもとして振る舞いきれなかった"
と思う。

テストも習い事もスポーツも頑張ってきたけど
"自分のためにやってきた訳じゃなかったんだな"
と気づいた。

私は今まで強がって

"自分の好きな事をさせて貰った、良い結果を収められたのは応援のおかげ"

と心から思ったと錯覚していたが、

よく考えたら

"強制された事(自分の今やりたいという気持ちがないもの、投げかけた側のエゴを感じたもの)は嫌いで、好きなタイミングで自由な発想を活かせる事をしていると心地よい"

と思い出す事が出来た。

親の事を強く愛していたが故の当時の錯覚は
"危ないながらも純粋で愛おしい"
ものだと思う。


よく考えたら
"良い噂、良い評価"というのは
凄く曖昧な判断基準だと思う。


受け取った側の快不快、
情報をキャッチした瞬間の気分、体調によっても評価が変わるだろうし、
誰から聞いた情報なのかという事も反映される。また、嫉妬の対象となり余計なしんどさを味わう事になるとしんどい。


どんな事も美化して
"ピカピカな思い出"
として飾っておく事に限界がきた。


しかし、大切な事に気づく事が出来た。
これは時代の流れに沿えている証拠。



真っ白のキャンバスに
明るい色絵の具も、
暗い色絵の具も、
光が当たっている部分も、
影になっている部分もあるから
自分だけのオリジナルの人生図を描く事ができる。


これから更に
色味を足したり、
引いたりしながら
"我流"を極めたい。


この時代に誕生し、
唯一無二の自分として今この瞬間を経験出来ている事はスペシャルな事。


私らしく、あなたらしく、
ありのままの輝きを放とう。

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