やまびこびこ
やまびこ こだま。古く、山の神、山の霊の声と考えられていた。エコー。反響。(大辞林より一部抜粋)
「ずいぶんと積極的なやまびこですね」
話を聞いた聞き役は、すりガラスの向こうにいる、今年で定年を迎えて夫婦で登山をしていた男に言った。
「私一人の時はこないのですが、山を出るときは必ず『今度は連れてきてねー』とやまびこに言われます」
男の話によると、夫婦で登山をしている時に、山の向こうから「やっほー」という声が聞こえてきたのだそうだ。最初はどこかで子供が叫んでいるのだと思ったが、登れども登れども、何分かおきにはまた「やっほー」と声が聞こえる。
ずいぶんと飽きない子供だなあと思ったが、二時間たっても三時間たっても同じ調子に声がやってくる。
「とうとう私は「やっほー」と返事をしました。しかし、『私の』やまびこが返ってくるだけでした。それからして、また「やっほー」と聞こえてきました。今度は妻が叫び返しました。返って来たのは確かに妻の声でしたが、それと一緒にあのやまびこも帰ってきました。しかも、何十になる程たくさんの。妻はすっかり怯え、私も正直恐怖して登山計画も全て投げ捨ててその場で引きかえしました。
それから、違う山に登ったのですが、やはり、やまびこはやってきます。しかも、目的は妻のようで、妻がいないときは、先程私が話したように、山を出るときに『今度は連れてきてねー』と言われるのです」
「ずいぶんと好かれていますね。奥さん過去になにかなされたのでしょうか」
「それが私も妻も全く覚えがないのですよ」
それから彼の妻は山に登らなくなった。そうしたらやまびこの方から訪ねてくるようになったそうだ。
「少しでも山のようなものになら憑りつける?と、言った方がいいのでしょうか。そのような形で、妻に呼びかけるのです」
「少しでも山のようなもの、とは?」
「山と比喩できるもの、でしょうか。千切りのキャベツの『山』とか。そこから声が聞こえた時に『何が目的だ?』と叫んだのですが、なにも返ってきませんでした。今度は妻が同じことを言ったんですが、やはり結果は同じ、と、いうよりも妻の時は『やっほー』と声が返ってきました」
「キリがないじゃないですか」
「そうなんです。とうとう活字の『山』からも聞こえるようになりました。妻だけですが」
「本も読めませんね」
「読書は妻のもう一つの趣味だったんですが、できなくなってしまって。もう、そのころには妻の心はかなり弱ってしまって、漢字の中の偏にも―例えば崩壊の『崩』、あとは『岸』『岳』などです―反応して、特に偏(へん)+山に関連している漢字なんてかなりひどいらしく、とうとう体まで壊してしまったんです」
「じゃあ、今は病院にいるんですか?」
「家です。病院に行ったときに『山田さん』や『山口さん』から声が聞こえるからと妻が嫌がって。『山崎さん』なんて二重奏だそうです」
「もう逃げ場ないじゃないですか」
「そうなんですよ。山関連はもう怖くて怖くて、少しでも関係があるものは取り除きました。富『山』から北海道まで引っ越しましたし、山関連の単語も言わないようにしました。それでも『山』反応はひどくなるばかりで、妻はとうとう二階から飛び降りてしまって、打ち所が悪く、今意識が無い状態なんです」
「それはひどいですね。だから私のところへ」
「ええ、そうなんですよ。本当はそばにいてやりたいんですが、医師からは『今夜が『峠』です』と言われて……」
完