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コトバアソビ集「九夏旧家」

*九夏・・・九旬の夏の意。夏の九十日間のこと。
*マガジン コトバアソビ集 収録

(↓以下本文↓)

 17歳の僕は人を殺した。あの夏をどうしても思い出せない。

「君、終点よ」
 うたた寝をしていた僕を起こしてくれたのは優しい声だった。
「あ、ども・・・」
 ローカル線に長く揺られていた僕は、寝不足も相まって熟睡したようだ。慌てて電車を降りるとホームは無人で、僕は別世界に降ろされた気がした。
「悠一」
 誰かが僕を呼んだ。祖母が駅舎のベンチから立ち上がった。

 高二の僕は受験勉強に行き詰まっていた。将来に対する漠然とした不安が背後から肩を掴んでいて、振り返ったら恐ろしいものと目が合ってしまいそうな曖昧な恐怖を、どうしたらいいのかと悩んでいた。
「進学校の特進クラスの上位に居て何言ってんの?」
と友達は笑う。
 でも、理屈じゃなかった。

「ねぇ。この夏はお祖母ちゃんの家で過ごしてみない?」
「え?」
 唐突に母が言った。
「田舎でね、とても静かな所なの。古い家だけど広くてね。離れにお祖父ちゃんが使っていた書斎があって、ちょうどいいと思うわ」
「行けるわけないじゃん、塾の夏期講習もあるのに」
 僕が言うと母は優しい眼差しを向けた。
「悠一、最近疲れているみたいだから」
 洗濯物を畳みながら
「夜もよく眠れてないでしょう。国立の良い大学に行こうって意志は嬉しいけど」
 僕は黙る。
「体を壊したら元も子もないじゃない・・・親孝行だと思って行ってくれないかしら。駄目?」
 精神的に不安定なことも、夜中に起きて部屋をうろついていることも、隠しているつもりだったがお見通しのようだ。
「覚えていないでしょうけど、貴方が産まれた部屋もあるのよ。行けばお祖母ちゃんも喜ぶわ。インターネットも使えるようにしておくから、って」
「何だよ、話出来てんじゃん」
 僕は思わず笑った。
「行こうかな・・・」
 その夏、僕は電車に乗った。

 来る前に聞いた話では、母は里帰り出産で僕を産み、その後僕を連れて帰省したことは無かったそうだ。その辺りの事情は濁されてしまったが、多分顔も知らない僕の父親が絡んでいるのだろう。父を知らない僕には幼い頃から、将来しっかりした仕事に就いて母を安心させたいという気持ちが強い。

「大きくなったわねぇ」
 駅で出迎えてくれた祖母は、母がそのまま年老いたような人だった。
「さ、乗って」
 タクシーで母の実家へ向かう。
「色々準備したつもりだけど、足りないものは言ってちょうだいね・・・何もない田舎だけどお野菜もお米も美味しいの・・・鶏を飼っているのよ。朝は鬨を作るからびっくりするかもねぇ・・・・」
 車内での祖母の声は低く穏やかで、僕にとって初対面に近い緊張感を程よくほぐしてくれる。
「あの、折角来たんで、何か手伝えることがあれば言って下さい。お遣いとか掃除とか」
「まぁまぁこの子はお利口さんねぇ。良いのよ、家にはお手伝いをしてくれる人がいるの。気を遣わないでゆっくりしなさい」
 祖母は優しく微笑んだ。

 小さな駅の周辺に住宅と商店街があり、通りを抜けると水田が広がる。水田の中にポツンと小さな丘があって、祖母の家は丘の上にあった。
 中庭を囲む母家と、渡り廊下で繋がった離れ。敷地の中に建つ蔵と鯉の泳ぐ池。まるで旅館のような建物を見せられて僕は驚いた。周りの水田も殆ど祖母の土地だと言う。
「大した家じゃないんだけどとにかく古くてね」
 気分転換どころじゃなく、気分が吹っ飛んだ。
(お祖母ちゃん家って、もっとこじんまりしたものかと・・・)
 二人で居間に落ち着くと
「失礼します」
と襖が開いた。
「悠一、お手伝いをしてくれるテルさんだよ」
 お茶を運んできた女の人の美しさに僕は目を見張った。
「うちの遠縁でね。テルさんともうひとり、蔵に住んでもらってるの。テルさん、後で悠一に家を案内してやって」
 古風な顔立ちは何処か懐かしさを感じる。テルさんは穏やかに微笑んだ。

「離れはお茶室に使われたこともあるので、奥に水道があります。お手洗いとお風呂は母家になりますね。母家と離れと蔵は電話で繋がってますから、何かあったら呼んでください。・・何か気になること、あります?」
「え、えっと・・」
 長い廊下を歩きながら、僕は前を歩くテルさんの華奢な肩を見ていた。その顔が急に振り向いたので慌てて目を逸らした。
「駅の方まで戻れば、何かお店ってありますか。コンビニとか」
 まぁ、とテルさんは驚いた顔をした。
「要る物があれば仰って下さいな。買い出しはまとめてしますから。車でないと、歩くには遠いんですの」
「あ・・・分かりました」
 くすっとテルさんは笑う。
「それに、コンビニなんてありませんのよ。小さな商店街位しか」
 吊られて僕も笑う。
 軒下の風鈴が鳴り、遠くからは蝉時雨が聞こえる。
 夏の音にゆっくりと緊張が解れていった。

 刺激物から遮断され、そこに居る人間しか興味の対象が無いような環境で、僕がテルさんに好意を抱き始めるのは自然なことだった。多分二十代の前半だと思う。僕は食事の支度をする頃に台所へ行くのが習慣になった。祖母とテルさんが仲良くお喋りをしながら料理をして、それを皆んなで食べる。
 ただ、いつも一人前の食事を籠に詰めて避けてあった。
 そして片付けも終わった頃、テルさんが何処かへ運ぶ。
(蔵かな)
 もうひとり住んでもらってるという言葉を覚えていた。

 田舎の暮らしは本当に静かで、水田を渡る風の音や雑木林の蝉時雨、時折山から響く遠雷や、夜中に急に飛び立つ鳥の羽音・・そんな物音が聞こえはするのだが、心驚かせるということはなく、こんな世界もあるのだなと、神経が宥められていくのを感じた。

 祖母は食事の時以外は奥の間に籠っている。僕は離れで本を読むか、丘になっている敷地内を散策する。ある日土の上に蝉の死骸を見つけた。夏の盛りでも死ぬことがあるのかと、死骸を拾って帰った僕は意外な発見をした。
「へぇ。これ素数蝉だ」
 ネットで調べると十七年蝉と分かった。
「北米産なのに、なんでこんな所にいるんだろう」
 乾いた死骸を祖父の文机に置いた。

 七月はあっという間に過ぎ、お盆が近づく頃には
「悠一さん、なんだか逞しくなりましたね」
とテルさんに言われた。
「え、そうかな・・」
 変化には自分も気づいた。よく食べよく眠るせいか体調も良く、少し日焼けして体も締まった気がする。
「テルさんのご飯が美味しいから」
 そんな台詞が素直に言えた。テルさんは嬉しそうに微笑んだ。
 穏やかな夏の日々は永遠に続くかと思われた。

「テルさん、それどうしたの!?」
 朝食の支度にやって来たテルさんの頬に紫色の痣が出来ている。
「転んだの」
「ええ・・?」
 殴られたようにしか見えない痣だった。後から祖母が
「蔵の人よ。あまりあの子には聞かないであげて・・・」
 躊躇いながら教えてくれた。テルさんは蔵で男の人と暮らしていて、その人に時々暴力を振るわれている。
「元はまともな人だったのよ。働き者でね。でも体を壊して会社を辞めてからは、なんだかおかしくなっちゃって・・・」
「旦那さん?」
「訳があって籍は入ってないの。でも夫みたいなものね」
「全然見ないけど、ずっと蔵に居るの?」
「そう、人嫌いになっちゃってね。夜中にこっそり散歩することはあるみたい。ごめんなさい、言い辛くて・・・」
 幾つか質問をして分かったのは、祖母の屋敷の蔵なら人目も避けられ、家賃も光熱費も食費も掛からない。テルさんが祖母の手伝いをする代わりに居候させてもらっているのだと言う。
 テルさんにそんな事情があるなんて。
 僕の夏の日に翳りが差した。
 多分僕が・・・・よく覚えていないが、僕が殺したのはその男の人だと思う。

 微かに記憶の断片が残っている。
 テルさんの悲鳴。
 薄暗い蔵の中。
 長身の男の影。
 鎌を握った僕の手。
 テルさんの笑顔と、僕を抱く柔らかな腕。僕たちは一つになった・・・

「悠一」
 僕を起こしたのは優しい声だった。
「随分とよく寝てたわねぇ」妻が笑う。

 あの夏はもう、遠い記憶だ。

 思い出せないが、多分僕は誰かを殺し、誰かがそれを秘密裏に処理した。僕は進学し就職した。
 僕が家を離れると母は実家に戻った。祖母が遠縁の子を引き取ったとかで、育てるのを母が手伝うと言う。
「楽しみだわ、どんな子になるか」
 電話で聞く母の声は若やいでいた。

 僕の初めての女性は、曖昧な夏の記憶の中でいつまでも微笑んでいた。
 就職して一人前になった僕は彼女を迎えに行こうかと思ったが、殺人の記憶が邪魔をした。確かに殺した筈なのだ。誰かを。17歳の僕は恋した女性の為に人を殺した。
 僕は時折、草刈り鎌の柄の生々しい感触が残る手を、じっと見る。
 一度だけ祖母にテルさんのことを訊ねた。
「探さない方がいい」と祖母は言い、それきりだ。

 その後出会って結婚した妻に、テルさんの面影があることは誰にも話していない。更に言うとテルさんにも妻にも、何処か母に似た印象があることに後で気づいた。男は母親の影を追うものなのかと自分を笑う。

 強い日差しと蝉時雨と、山の端の積乱雲、風鈴の音。
 僕は年を重ね、幾つもの夏を迎えた。
 年毎に思いが増していく。
 あの夏がまだ何処かにあって、僕を待っているのではないかと。
 そして鏡を見る。
 僕が殺した男はこんな顔ではなかったかと・・・
 夏の陽炎の向こうで、少年が振り返った。

                            (了)


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