「アパート402」(梶井基次郎「ある崖上の感情」の二次創作:ホラー)
金曜日の夜。居酒屋で二人の中年客が話し込んでいた。どちらもこの店の常連である。
「ね、おたくも通勤路一緒でしょ、確か車でしょ」
「ええ、まぁ」
話しかけた方がグフフと笑った。
「いい情報教えてあげますよ。こないだ夜9時頃にM陸橋を通ると・・」
話はこうである。
中年客の一人(仮にAとする)は残業を終えて車で帰宅していた。帰る途中にM陸橋を登る。その夜、陸橋の脇に建つ4階建てのアパートの窓が開いていた。
「風の具合ですかねぇ、カーテンがブワァって靡いたんですよ。そしたらウフッ・・丸見えですよ。裸の女に男が跨ってんです。一瞬でしたけどね」
聞いた方の客は眉を顰めた。Aよりも上品な身なりのこちらをBとする。二人は友人ではなく、居酒屋に通ううちに顔馴染みになった仲である。
AはBの顰蹙に構わず話し続ける。
「いやぁ、思わず二度見しちゃった。陸橋と窓が近いでしょう?若くはないけどなかなかいい女でしたよ。男は割とマッチョでね」
「まさか、顔まで見たんですか?」
「はっきりとはねぇ・・でも一瞬女と目が合った気がしたなぁ。それで妄想膨らんじゃって。街中で偶然あの女と会ったらどうしようなんてね」
「そんなの、忘れた方がいいと思いますよ」
Bの態度は淡々としている。
「いやいや、あんな結構な眺めは忘れられませんよ。もし今度、夜9時頃に陸橋を通ったらアパートの4階を見てご覧なさい。おたくも見られるかも知れませんぜ。ウフフ」
なんとも下世話な話である。Aは声を潜めたつもりだろうが、酔いもあって時折声は大きくなり、話は近くにいた店員に丸聞こえだった。
その日の営業が終わり、清掃を終えた若い店員が二人同時に店を出た。
「なー、あの話のアパートって行ったことある?」
「ああ、割と配達行くわ。あの辺って食べる店ないしコンビニも遠いんだよな」
二人は居酒屋のバイトの他にデリバリーの配達員もしていた。
「陸橋から見える窓って401か402だろうな」
「402は無いよ。401の隣は403。シニは縁起が悪いんだろ」
「あのオッサンエロそうだったなぁ。見たっていうデブの方」
「見ても黙ってりゃいいのに、嬉しそうに喋ってたなぁ」
「職場の女の子に嫌われてそー」
「確かになー」
一人が茶髪、一人がロン毛。二人の若者は店の常連を馬鹿にしながら帰って行った。
デブの中年客の事故死が報じられたのは数日後のことだったが、ローカルニュースなど見ない店員達が知ることは無かった。単に
「あのエロ最近来ねーなぁ」で終わった。
しばらくしてロン毛の店員は居酒屋からバーへ転職した。元々バーテンダー志望だったのだ。そして偶然居酒屋の常連だったBに遭遇した。
(あ、あの人だ)
すぐに気づいたがBの方は店員に気づかなかった。居酒屋の派手なエプロンからビシッと決めた蝶ネクタイ姿に変わったせいだろう。Bはカウンターの隅で体格の良い男性客と飲んでいた。
「・・・あれはまだ在庫が・・・」
「保存状態は良好で熟成・・・」
何かの取引の話だろうか。ここは格式の高いバーで客の会話が聞こえたとしても外に漏れることは無い。
「・・・誕生日に妻の配達を・・・」
(ん?)
聞き違いかと店員は思った。
(妻の誕生日に配達を、だよな?)
聞き直すなど無論出来ない。
店員の中に小さな疑念を残して客たちは帰って行った。
次の週、ロン毛の見習いバーテンダーに元同僚の茶髪から連絡が入った。
『なぁ、悪いけど俺の代理でデリバリー頼めない?足を怪我しちゃってさ』
「そんなの放っておけば他の奴が勝手に登録するだろ?」
『個人的に頼まれた配達なんだ。特別な注文でさぁ。信用出来る奴しか使わないんだよ。頼む!太客だから逃したくないんだよ。金は勿論全部お前が取って良いから!』
聞けばこの配達はかなり特殊で、一般には知られない会員制のキッチンで調理された料理を運ぶそうだ。
『回収場所と配達先はまだ聞いてない。直接届ける奴じゃないと知らされないんだよ。受けてくれるなら、先方にお前の連絡先を教えるけど』
「って、いつだよ」
『今日』
「ええ?」
『頼むよ!行くつもりだったけど直前に怪我しちゃって困ってんだよ!』
何だかよく分からないが、前の職場では世話になった。ロン毛は依頼を受けることにした。ものの10分もするとスマートフォンに仕事の連絡が届いた。
「あれ、これって・・・」
商品を回収する場所が、M陸橋側のアパートの402号室になっていた。
(部屋番号については間違っているんじゃないか)
そう思いつつもアパートに向かうと、部屋番号は確かに402となっている。
ドアを開けると体格の良い男が待っていた。
(あ、この人)
Bと一緒にバーに来ていた男だと分かった。筋肉質の体を白い調理服に包んでいる。服に少し血が滲んでいるのは、肉でも捌いていたのだろうか。
荷物は発泡スチロールに入っており、冷んやりしていた。
指定された届け先に着いてまた驚いた。届け先はBの家だった。しかも所謂タワマンである。
「やぁお疲れ様。待っていたよ」
Bはニコニコと受け取る。配達料はその場で現金払いだった。
「有難う。大好きな妻なんだよ」とBは笑う。
(ん?妻が大好きなんだよ、だよな?)
ふふっとBは上品に笑った。配達する距離も遠くないし荷物も軽い、楽な仕事だった。報酬は高額で言うこと無しだ。元同僚の茶髪にもえらく感謝された。
しかしその晩。奇妙な想像に取り憑かれて、ロン毛は寝付けなかった。
無い筈の402号室。
裸の女にのし掛かるマッチョな男。それは果たして性行為だったのだろうか。
調理服に滲んだ血。
妻の配達を。
大好きな妻なんだ。
窓の中を目撃してから姿を消した常連のデブ男。
(あのおっさんは何を見たんだ。そして・・・)
想像が止まらない。
(あの客は、何を食べた?)
ロン毛はデリバリーの仕事を辞めた。バーも辞めた。茶髪との連絡も絶った。
そして、絶対にM陸橋は通らないことにしている。
アパート402。
あの窓を見てはならない。
(了)