「雪の駅」(川端康成「雪国」の二次創作)
「今村さん?」
駅舎を出た男に女が声を掛けた。
山間の小さな駅だ。錆の浮いた線路の側に燐寸箱のような駅舎が建つ。壁に掛かる時刻表には空白が目立つ。
立ち尽くした男は彫りの深い顔立ちをしている。歩み寄る女は小さな丸顔に大人しい目鼻を置いている。素の顔でも白粉をはたいたような肌はいかにも雪国の女のものだ。
「どうしたの、こんな田舎に」
女の顔から懐かしさが溢れた。
「十五年振りね」
男は夢から覚めたように
「いや・・・仕事で隣の県まで来て。この方面には滅多に来られないから寄ったんだ。会えたら会いたい位に思ってたのに、電車を降りたらいきなり会うなんて驚いた」
「あたしだって。でもすぐに分かった。今村さん全然変わらない」
「そんなことない。もう四十前のおっさんだよ。真子ちゃんこそ変わらないね」
男は座るかと尋ねるように駅前のベンチを指差した。女は歩こうと促すように背を向けた。細い腰の両側から指先が覗いている。
(癖だな、この子の)
身を守るように自分を抱く癖は、十八の頃から変わらない。二人は駅を後にして歩き始めた。
細い畦道を二人は歩いてゆく。刈り取られた稲の跡が乾いた断面を晒している。
「お仕事って、ご実家を継いだんでしょう?」
「それがね・・一旦は継いだんだよ。小さい酒蔵だけど、俺で三代目だし。でも次の年に蔵が火事になってね。親父も、火を消そうと中に飛び込んで死んだ」「えっ・・・」
「機械も焼けてね。借金してやり直すって手もあったんだけど、お袋が。お前が借金背負う位だったらもう閉めようって。俺もまだ経営のノウハウなんか十分に受け継いでなかったから自信も無くて。それでまあ・・・残ったお金は従業員に分けて俺は外へ働きに出た。今は出版社で働いてる」
「そうだったの・・・」
「その後お袋も死んでね」
頭上に重苦しい雲がのし掛かる。枯れた景色の中を二人は歩き続ける。
「君はどうしてるの。ご実家の旅館は、まだやってるの」
「泊まりはもう受けてないの。母が死んで、父は倒れて殆ど寝たきりになって。お風呂だけ続けてる。地元の人も入りに来るし、ようちゃんが好きだから」
「何だよ。真子ちゃんの方が大変じゃないか」
「そうでもないわ。昼は事務のパートに出てるんだけど、その間は近くの叔母とケアの人が父を見てくれて。夕方交代してお風呂を開けるの。それだってのんびりしたものよ。常連さんばかりだから」
「ようちゃんは元気?今幾つ」
「二十二」
「もう大人だね」
「中身は昔と一緒よ。今パン屋さんで働いてる。施設の人が送迎してくれてね。さっきはね、駅の人にパンを届けに行ったの。お店に来て褒めてくれたみたい。だからね、御礼にあんパン十個」
ふふっと笑った。
「ようちゃんにはみんな優しいの。あなたもよく遊んでくれたわね」
「覚えているかなぁ」
「どうかしら。さ、着いたわよ」
不意に真子が土手の階段を駆け上った。
「ここから見た夕焼けが綺麗だって言ってたでしょう。私覚えてたの」
河原と川と鉄橋が見える。稜線が茜色に染まっている。
「ここに向かって歩いてたんだ」
「知らずについてきたの?」
「景色は覚えてるけど道は忘れていたよ」
雲が重く夕日は見えない。二人は堤防に腰を下ろした。
「ねえ。出版社で何してるの」
「小さな会社だから何でもやらされてるよ。取材に文字起こしにサイトの運営まで。外部に委託する作業もあるけど、出来ることは社内でやるから。途中入社だからと思って最初は張り切ったけど、空まわりすることも多くてね。企画を持ち込んでも、話に行くと机の上に前の企画書がそのままになってたり。徒労だね」
真子は少し考えていたが、
「でも文化って徒労の繰り返しでしょう」
「え?」
「出版って文化でしょう。歌舞伎とか文楽とかそういうのも、最初から素晴らしい日本文化だって言われたかしら。繰り返しているうちに受け入れられていったんじゃない。例えが下手かも知れないけど」
今村は真子を見た。
「俺の仕事はそんな大層なものじゃないけど・・有難う。良いこと言ってくれて」
真子は照れた顔で笑う。そっと今村の横顔を見る。目が曇っている。
仕事のついでに寄ったというのは嘘かも知れない。日々に疲れ、若い頃の思い出に浸る為に訪れたのではないだろうか。
一方今村は真子の顔を見られない。
真子は勘違いをしている。綺麗だと言ったのは夕焼けじゃない。この場所で、夕日に包まれて金色に輝いていた真子をそう言ったのだ。あの時も言えなかった。今も言えない。会いたかった。君に会いに来たと。
今村は自分の薬指を見る。言えない証があった。
十五年前、今村と真子の間には淡い恋があった。深い関係になりそうな一瞬もあった。その瀬戸際を越えられない真面目さが二人にはあった。今村は卒業旅行でこの町を訪れ、真子は高校を出て実家の旅館の手伝いをしていた。
その後真子は一度嫁いだが不縁となっている。夫婦仲は悪くなかったが、夫は子どもを作ることを拒んだ。夫の母親が反対していると言った。障がいのある妹、よう子を理由として。
背を向けて避妊具を付ける夫の姿が忘れられない。
「寒い?」
顔を上げると今村の優しい目がある。何も知らない目だ。
「大丈夫。寒いのは慣れてる」
話すつもりはない。
「空が重いね。雪が降るんだろうか」
「今村さん昔こう言ったわ。水と不純物が凍ったものなのに、何故こんなに健気に白いんだろうって」
「南国生まれだから珍しいんだよ」
「お父さんに怒られてたわね、雪の厳しさを知らんって」
「そうそう・・・」
昔話をした。田舎の温泉宿には珍しく学生のグループが泊まりに来たので、真子の両親が喜んだこと。幼かったよう子が今村に懐いて、何処へ行くにも付いてまわったこと。
その中でも二人は昔の恋の話だけはしなかった。避けているのが互いに分かった。掘り起こして冷たい現実に晒すよりは、暖かい過去へ置いたままがいい。臆病なところが二人は似ていた。
「あっ、本当に降ってきた」
今村が手を伸ばす。雪は手のひらで無惨な水滴になった。真子が立ち上がる。「暗くなるわ。帰りの電車調べた?また本数が減ったのよ」
「いや、うっかりしてた。じゃあまた駅まで歩くか」
「うふふ。結局田んぼを歩いただけね」
「いいんだよ。真子ちゃんに会えたし」
「まあお世辞。ちょっと急ぎましょうか」
畦道を戻る。やがて駅に着き、今村は車中の人となった。
「私行くわね。そろそろようちゃんがお店から帰ってくる」
「いいよ。今日は有難う」
「何も出来なかったわ。また来る?」
「どうだろう」
「元気でね」
「うん、真子ちゃんも」
電車はまだ動かない。足早に立ち去る真子の後ろ姿が車窓から見えた。今村は一瞬、真子を呼びそうに窓に顔を近づけ、やめた。
町に来る前、今村は段取りを考えていた。商店街で食堂にでも入り、真子の実家の様子を尋ね、会いに行っても良さそうだったら会いに行こうと。それが、いきなり駅で出会った為に狂ってしまった。
言いたいことは一つも言えなかった。結婚したこと。離婚が近いこと。愛された実感が一度も無かったと妻は言った。否定できなかった。
妻との結婚は理屈で選んだ。適齢期に交際し、難点も無く、継続していける仕事を持った女性が傍に居たから。では自分は誰かを愛したことがあったかと振り返った時に浮かんだのが真子だった。
(どちらにも失礼な話だ)
せめて正式に離婚が済んでから訪ねるべきだった。細い腰から覗いていた真子の薬指が裸だったことは嬉しかったが。いや・・・
こうも思う。
十五年振りに予告も無しに訪ねて偶然再会するなど、運命の好意的な悪戯ではないか。まだ四十前。少し気恥ずかしいが、やり直せるんじゃないか。初恋の続きを。もう一度来よう。全てに片を付けてから、また会いに来よう。
電車はまだ動かない。窓の外に降る雪を今村は見つめていた。
「おねーえちゃん」
畦道の向こうから華やかな毛糸玉が歩いて来る。その姿を見て真子は笑った。色とりどりの毛糸を使った帽子とニットは、妹に頼まれて真子が編んだものだ。「ようちゃん。お仕事終わったの?」
「そー。今日も頑張ったの」
「お疲れ様。一緒に帰ろ」
「うん」
二人は腕を組んで歩き始めた。狭い畦道から転げ落ちそうになり、その度に笑いながら。
「ようちゃん、あんパン十個、ちゃんと届けたからね」
「ありがとー」
「でも、どうしてなの?」
「好きだからー」
「え?」
よう子はとても素直に笑う。
「あのね、ユキオさんもようちゃんが好きなの。本当なの」
「・・・まああ」
素直で鏡のように真っ直ぐなよう子の目は今、恋の色に輝いている。
(ああそうか、ようちゃんももう大人なんだわ)
ユキオは若い駅員の名で、少し内気だが感じのいい青年である。そういえばあんパンを届けに行った時、今度ようちゃんと映画に行っていいですかと訊かれた。深く考えずにまあどうぞよろしくなんて、間の抜けた返事をしてしまった。(そうか・・・)
体は大きくなっても中身は子どもだなんて、決めつけだったのかも知れない。人よりは幼いし働くにも誰かの助けがいるけれど、優しくて素直だ。恋人が出来ても不思議ではない。姉なのに、そんなことに気づいていなかった。もしもそうなら。
「ねぇようちゃん。ユキオさんとお付き合いして、結婚とかしちゃうのかな?」「分かんなーい」
よう子は恥ずかしそうに笑う。
(ああ、もしも・・・)
一生自分が妹を守っていくのだと思っていた。もしもそうでないなら。そうして、こんなことを考えてはいけないが、高齢の父が病み疲れた体から解放される時が来たら。私は新しい道を歩んで行けるのだろうか。
想像が広がる。
妹とユキオさんが幸せになれるとしたら、旅館と温泉に固執している父を説得して処分してしまおう。幾許かのお金になれば妹に持参金として持たせてあげたい。そして私は自由になったら外へ出よう。町を出て一人暮らしをしてみたい。今まで諦めていたことが出来るかも知れない。
真子の想像の中に今村の姿は無かった。既に思い出の一部だった。
真子は手を伸ばし、降る雪を掴む。
今まで手のひらを上に向けて、幸せが降るのを待っていた。
真子は両手を伸ばし降る雪を掴む。次々と嬉しそうに。
今村の乗る電車が動き始めた。もう片方の線路の向かい側からも電車が向かって来た。
二つの電車は一瞬すれ違い、過ぎ去って行った。
(了)