「蝶の夢」(中原中也「一つのメルヘン」の二次創作)
『これは夢か恋か、否。幻に過ぎない』
頁を捲る手が止まった。
「どうかした?」と妻が訊く。
「いや・・」
日記を側に置く。
「疲れただろう。すまんな、せっかくの休日に」
「いいのよ。近くにいる身内は貴方しかいないんだし」
障子の隙間から差し込む日差しが翳りを帯びてきた。
「今日はこの辺にして、暗くならないうちに帰るか」
「そうします?ねぇ、夕食は外でいい?途中にお蕎麦屋さんあったじゃない」
「蕎麦か、いいね」
私はコートを取ると内側に日記を忍ばせ、父の家を出て鍵を閉めた。
三ヶ月前に父が死んだ。八十の年齢の割には元気で、淡々とひとり暮らしを続けていたのだが、ある朝路上で倒れているところを発見された。
母は十年前に亡くなっており、父の兄弟も同様だ。私の妹は国外に居る。
残る私が遺品整理をすることになった。時には妻も同伴してくれる。
私は今日得た思わぬ収穫を持ち帰ることにした。
八十の老人が恋をするものだろうか。
私は罪悪感と好奇心を抱きつつ、父の恋を繙く。
『今朝もあの人が居た』
『こちらを見て微笑んだように見えた』
『今朝は顔が見られなかった。こんな雨の日は読書でもしているのだろうか。
どんな本を読むのだろうか』
「・・・なぁんだ」
読むにつれ、その他愛なさに私は安堵する。
要するに父は、日課の散歩の途中で窓辺に座る『彼女』を見かける。たった
それだけの恋をしていた。
(色ボケしている訳じゃなかったんだな)
父の日記には日付が無いが、他の記述から出会いは初夏と知れた。死ぬ秋の朝まで、季節ひとつ分の恋は詩の断片のようだった。
『彼女の髪は絹の糸。さらさらと風にそよぐ。私は老いた芋虫・・・』
私は時折現実と空想の境に惑う。
『朝霧の底を這いながら彼女を見上げる。彼女は新鮮な空気をその胸に含み
吐く。可憐な唇を経由して・・あゝ、空気になりたい。霧の粒子になりたい』
私は苦笑する。父は在学中に文芸部に居たと聞いた事がある。そんなセンチ
メンタルな部分が、年老いて蘇ったらしい。
描写からして彼女とは若い女性のようだ。
「あなた。読書ですか?」
「うん・・」
私は日記を閉じる。流石に他人である妻に父の日記を読ませるのは忍びない。
「何でもないよ」
私は日記を隠した。
『彼女はいつも同じ時間に窓辺に・・・』
『私もいつも同じ時間に散歩に・・・』
『あの角を曲がると彼女の・・・』
妻に隠れて日記を読みながら、私は父の代わりに羞恥を感じる。
密かな楽しみと見逃すべきだろうか。しかし、見られる側の気持ちはどんな
ものだろう。
微塵も気づかなかったのだろうか。自分を眺める為に散歩する老人が居るなどとは。
(探してみよう)
父の家の徒歩圏内に居る筈だ。二階建ての家の角部屋で、毎朝外を眺めている髪の長い女性。
次の週末、私は一人で父の家に泊まった。
(朝、牛乳配達の音を聞いてから家を出る・・)
霧の深い朝だった。日記を頼りに道のりを辿る。
(郵便ポストの角を曲がる・・)
父と同じようにゆっくりと歩く。会えるだろうか。父の死から三ヶ月が経っている。彼女はまだ、窓辺に居るだろうか。私は自分が恋をしているような錯覚に陥る。もしも私が父のような年齢で若い女性に恋をしたら、声など掛けられないだろう。一笑に伏されるのを恐れ、気づかれないようそっと遠くから眺めるだろう。
私は想像する。老いた心にしんみりと恋を抱きながら、今日は会えるか会えないかと、期待と不安を胸に家を出る。老いらくの恋は少年の恋に似ている。
それにしても霧が深い。
もうすぐだ。あの角を曲がれば二階建ての家が・・・
(おや)
家の前に腰の曲がった老人が居る。
(・・・親父?)
死んだ筈の父だ。
『彼女の髪は絹の糸。さらさらと風にそよぐ。私は老いた芋虫・・・』
朝霧の中に蹲る背中の曲がった老人。切なく怯えた視線の先に二階の窓が
ある。女性は下ろした黒髪を胸まで垂らし、物憂げに朝の空を眺めている。
二人は交差しない。
父の背中が一層丸く縮こまった。私は気づいた。ここは父が倒れて発見された場所だ。
私は父に駆け寄ろうとするが足が動かない。親父、親父と叫ぼうとするが声が響かない。
父の背が割れた。
(え?)
紙が破れるような音を立てて、背中に一筋の亀裂が走る。何かが動いた。
(あ・・・)
父の抜け殻はそのまま地べたに崩れる。亀裂から生まれた蝶はひらひらと霧の中を舞い、彼女の元へ向かう。私は黙って見守るしかなかった。
蝶は彼女の居る窓辺に辿り着いた。父は憚ることなく彼女を仰ぎ見る。濃い霧が漂ってきた。抜け殻も窓辺も霧に覆われて消えた。
「親父・・・」
「もしもし、どうされました?」
「え?」
気がつくと私は父の家の前に立っていた。牛乳配達の青年が心配そうに見て
いる。
「具合でも悪いんですか?」
「いや・・・大丈夫。気にしないで下さい」
「ここ、もう人が居ないと思っていたのでびっくりして」
「ああ、父の家なんです。遺品整理に来てまして」
「そうでしたか」
配達人は立ち去った。空き巣と間違われたのかも知れなかった。
霧はすっかり晴れている。私はもう一度道のりを辿り彼女の家へ向かった。
家に着くと庭先から老婆が立ち上がった。
「よっこらしょ・・・」
庭には老婆が丹精したのだろう、手入れの行き届いた花壇がある。先程は窓
ばかり見て気がつかなかった。
「おはようございます。あの、お宅の二階なんですが」
「あれねぇ。朝になると窓を開けるんですよ。お外を見せてあげたくってねぇ」
「そうですか・・」
「あら、ご近所の方?ごめんなさい。私目が悪くって」
「いえ・・たまたまこちらに来てまして。霧が深い町ですね」
「そうねぇ、盆地で川がありますから。川霧がね」
私は戸惑っていた。霧が晴れて明らかになった彼女の正体に。
「素敵な絵ですね」
老婆は恥ずかしそうに笑った。
「あれねぇ、若い頃の私なんですよ。父が描いたんです。よかったら、中でご覧になります?」
私は素直に従った。
二階の窓辺で彼女は慎ましく微笑んでいる。あら、と老婆が首を傾げた。
「おかしいわ。こんなだったかしら。おかしいわね。私ボケちゃったかしら」
肖像の胸元に蝶がとまっている。こんな蝶はいなかったと老婆は呟く。
「いい絵ですね」
「有難う。でも変ねぇ・・・」
老婆はその後、庭先で私に紅茶を振る舞ってくれた。小さなガーデンテーブルを挟み私と彼女は向かい合う。
「貴方、私の初恋の方に似ていらっしゃるわ。初対面の方に失礼ですけど・・・いいえお付き合いはしていないの。片思いなの。大学の先輩でね、文芸部の
方で。とても素敵な詩を詠んだの。私その方の詩集を持っているわ」
老婆は知らない名前を呟いたが、恐らくペンネームなのだろう。苗字が父と同じだった。
「お話をしたこともないのよ。私は遠くから彼を見てたの。うふふ、ごめんなさいね。急に昔を思い出しちゃったわ・・・」
「いいえ。いいお話です。貴女とお話し出来て良かった」
冬の陽が老婆に降り注いでいる。胸元の木漏れ日は蝶になり、ひらりと舞った。
(了)