「汝(な)が靴を履いた猫」(シャルル・ペロー『長靴を履いた猫』の二次創作)
ねーう、ねーう。ゴロゴロゴロ。
「あら、また?」
珠美が玄関に行くと、猫が革靴にじゃれている。
「顔を掻くのにちょうどいいのねぇ」
ゴロゴロゴロ。
靴の甲の部分の角に頬を擦り付ける。時にはズボッと顔を靴の中に突っ込む。
「うふふ、楽しそう」
靴に少々毛が付いても、お猫様が良ければそれで良い。
それが猫飼いの法律。
革靴はいつも玄関に鎮座していた。
珠美は一人暮らしの会社員だ。夜飲みに出かけることもなく、仕事を終えると真っ直ぐ帰宅して猫を抱く。
日中は自動給餌機からタイマーでフードが出るようにしていて、昼休みは一人で弁当をつつきながら、機械に搭載されたカメラで猫を見る。
珠美の生活の円グラフは仕事と友人を足しても三割、残りを全て猫が占めていた。
日曜日、事件が起きた。
宅配便を受け取っている隙に猫が玄関から出てしまったのだ。
猫は臆病な性格で、いつもはチャイムが鳴ると部屋の奥へ逃げてしまうのに、その日は何故か玄関の方へ突進してきた。
「やだ、待って!」
猫は廊下を駆け抜け、突き当たりの階段を降りて行ってしまった。
「ああ・・」
呆然とへたり込む・・暇は無い!
珠美はスマホと財布、猫用おやつ、キャリーバッグを掴んでマンションを飛び出した。
翳りを帯びた夕暮れに徘徊する三十路の女。
(絶対不審者だと思われてる・・)
玄関に常備してあるマスクを持って出たのがせめてもの救い。
(部屋着でもすっぴんでもなんでもいいわ。バロン、何処・・・)
バロンとは何年も一緒に暮らしている。あの子の居ない生活は考えられない。
珠美は半泣きで町中を歩き回った。
捜索は深夜に及んだ。
巡回中の警察官に職質され、懐中電灯を買いに入ったコンビニでは変な目で見られた。
辿り着いたのは見覚えのある公園。
そこは昔、野良猫だったバロンを保護した場所だった。
誰も居ない。
芝生は黒い海のように広がり、街灯が頼りなく夜を照らす。
(少し、怖い)
そう思った時。
「珠美」
懐かしい声がした。
振り向くと、何年も前に別れた恋人が照れ臭そうに立っている。
「孝・・・」
彼の足元に戯れつく猫の姿。何度も顔と体を擦り付ける。
孝がクスッと笑う。
「こいつ、ホント俺の足好きだな」
バロンを保護した時は孝も一緒だった。
玄関の革靴は孝のものだ。
「・・・元気?」
「まあまあ、かな・・」
短い会話で、互いにまだ好意を抱いていることが分かる。
元々嫌いで別れた訳ではなかった。
珠美はバロンを抱いた孝と一緒にマンションへ帰った。
再び想いを通わせるまで時間は掛からなかった。
(バロンはきっと、孝の元へ案内してくれたのね)
珠美はそう信じた。
その夜、夢を見た。
玄関にすっくと立つバロン。
足に履いているのは孝の革靴。
バロンは貴族のように優雅な足取りで歩き、軽やかに舞う。
それを見て孝と二人で笑っている、幸せな夢だった。
翌朝、夢から覚めると。
「きゃあ、バロン!なんて事を!」
玄関の革靴は無惨に齧られてボロボロになっていた。
「どうしてよう!今までこんなことしなかったのに!」
キッとバロンを睨みつけてしまう。
「ねぇ孝、これ見・・て・・・」
孝の姿は無かった。
珠美の表情から力が抜ける。
「だよね。居ないよね・・・」
部屋の中は、こんなにも彼の物で溢れているのに。
彼の靴。彼の写真。彼の食器。彼の服。
孝だけが居ない。
珠美は玄関に座り込んだ。
バロンは強い眼差しで珠美を見上げる。
「・・・もう忘れろって言うの・・・?」
くしゃ、と顔が歪んだ。
「忘れなきゃいけないの・・・?」
誰もがそう言う。
友人も、親兄弟も。
珠美は壁に掛けられたカレンダーを見る。
今日は特別な日だが、何の印も書かれていない。
書く必要が無かった。孝の命日を忘れる筈が無いから。
珠美は暫く黙って猫の背を撫でていた。
それからボロボロになった革靴を丁寧に磨いて、靴箱に入れた。
「・・今日は靴だけで勘弁してね」
無理に笑う。
「少しずつ片付けるから。少しずつ・・・」
「ねーう」
了解、と猫が鳴いた。