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「思ひ出」(三島由紀夫「朝の純愛」の二次創作)

 老婦人は眼鏡に指を添えて位置を戻すと、タブレットの画面を一心に読み耽った。白衣の青年が尋ねる。
「契約内容に変更はありませんか?」
「このままで結構よ。期日も予定通り、私の七十歳の誕生日にして頂戴」
「少し早い気もしますが・・」
「もう十分」と老婦人は手を振る。
「仕事も順調だったし結婚は三度したわ。幕は自分で下ろしたいの。生きているうちにこういう制度が出来て良かった」
 くすりと笑う。
「あら。死ぬのに、生きているうちにって何か変ね」
 白衣の青年もつられて笑う。その後改まった表情で続けた。
「それでは、実験へもご協力下さるということで宜しいですか。死亡時に記憶の一部を抽出しデータとしてご提供頂けるという」
「<一番素敵な恋の記憶>でしたわね。でも、どうやって選択するの?」
「人が多幸感を感じた時に分泌されるホルモンの量をグラフ化します。その数値が高いポイントの記憶画像から恋愛に該当する部分をAIが選択し、最終的には人間がチェックします。プライベートな部分が他人に見られることになりますが、その点については」
「たった一人残った身内がおりますわ。息子が確認して差し支えなければデータを提供しましょう。それで宜しいのよね?」
「結構です。個人的に氷野様には期待しています。何しろ恋多き女優として有名な方ですから」
 老婦人がふふっと笑うと口元が華やいだ。過去の美貌の名残が漂う。
「変な時代ねぇ。そこまでして若い人に恋愛を奨励しないといけないの?」
「晩婚化、少婚化に歯止めがかかりませんから政府も必死です。某国のように人工的に人口を増やす訳にはいきませんので」
「その記憶を夢に見ながら最後の眠りにつくのね・・・」
 二人は少し黙った。
 老婦人が語りかける。
「『朝の純愛』って小説をご存知?」
「いいえ」
「昔舞台で演じたの。年齢を重ねたある夫婦が、それぞれに若い恋人を作って愛し合う。でもそれは若い相手が欲しかったのではなくて、自分達の昔の愛を呼び起こす為に利用した・・簡単に言うとそんな話よ」
「最後はどうなるんです」
「夫婦は恋人に殺されてしまったわ」
 白衣の青年は黙る。
「あら、変な話をしちゃった。それじゃあ先生、当日にお会いしましょうね」
 老婦人は優しく笑みを浮かべた。

 少子高齢化社会の破綻を目前に政府が導入したのは、自分の意志で寿命を決められる選択性のエンディング制度だった。一定の年齢を超えるか、完治不可能な病気に冒されたケースに限り、申請と審査を経て本人が希望する日にちに死ぬことが出来る。苦痛は無い。
 かつて記憶とは持ち主の死亡と同時に消滅してしまうものだったが、技術が保存を可能にした。そして貴重な資料として各方面で活用されるようになった。
 スポーツ選手の最盛期の高揚感や殺人鬼が犯罪に至る心理等、多種多様だ。
 今回の対象は往年の名女優氷野淑恵。
 会社員、映画監督、女優との同性婚。三度の結婚と数知れぬ恋愛。
 彼女の人生最高の恋愛の記憶は、さぞ絢爛なものであろうと思われていた。

 その日は訪れ、氷野は晴れやかな表情で死へと赴き、底深い湖のように穏やかな笑みを浮かべ永遠の眠りについた。

「母の記憶の確認に参りました」
 初老の男性が施設を訪れる。お待ちしてました、と白衣の青年が出迎える。
「今からお母様の記憶を確認していただくことになります。私は職務上先に拝見しておりますが、少しその・・」
「何か?」
「申し上げにくいのですが、記憶の抽出に不手際があった・・のか・・?納得出来ない部分がありまして・・・」
「画像が保存出来なかったんですか」
「保存は出来ましたが」
 初老の男性はふっと笑った。
「何を見せられても私は驚きませんよ。私は母と最初の夫との間の子どもです。父が亡くなった時に母は四十代でしたが、まぁ破天荒な恋愛を繰り広げましたからねぇ。痴話喧嘩にも何度遭遇したことか」
「それがその・・・とにかく見ていただきましょう。私には判断が出来ません」
 白衣の青年はリモコンで採光を調節した。窓ガラスは半透明となり外部からの視線を遮断する。ディスプレイを男性の前へ置き、画像の再生が始まった。

 画像は氷野淑恵の視点になっている。場所は室内のようだった。テーブルの上に食事が並ぶ。白米に味噌汁、焼き魚。視野に入ってきた男性が椅子に座った。五十歳前後のいたって普通の人物に見えた。視野の角度が変わり、氷野淑恵も食卓についた。
 二人は向かい合って食事をとる。
 箸や茶碗の音が響く。
 氷野の視点が動いた。移動して戻ってくると、漬物の入った小鉢を置いた。
 二人は黙々と食事を続けていたが・・ふ、と同じタイミングで箸が伸びて、偶然一切れの漬物を二人同時に摘んでしまった。
 向かいの男性が箸を離して漬物を譲った。
 二人が同時に笑った。
 映像が途切れた。

「あの・・・これだけなんです。意味が分からなくて」
 白衣の青年は首を傾げる。
「親父です。多分、亡くなる少し前の・・・」 
 氷野の息子が目頭を押さえた。

「私が大学に入り実家を出て、両親が二人で暮らしていた頃です。父は会社員の大人しい男で、母は昔から華やかで・・・私は子どもの頃からアンバランスな夫婦だと思ってました・・・父が死んでから母は働き始めて、地方のロケで見出されて女優へ転身し華やかな世界へ進んだ。派手になる母が疎ましく、私は距離を置くようになりました」
「三十年前の記憶ですか。それにしては画像が鮮やかだ・・・」
 白衣の青年がディスプレイを見る。
 静止された画面の中で男性が微笑んでいる。

「母の最愛の恋の記憶が父だったなんて。私はてっきり他の男かと・・・」
 青年も意外だった。
 氷野の経歴は知っている。華やかな恋愛。時に泥沼の愛憎劇。その渦の中心を生きた女性の七十年の恋の遍歴。
「データもこの画像を示しているのですが、正直信じられません。これが恋の情景と言えるのでしょうか。こんなありふれた日常が」 
 氷野の息子は暫し黙った後に
「・・・若い情熱や肉欲の衝動を過ぎて生涯を振り返った時に・・・一番輝いていたのは、そのありふれた日常だったのではないでしょうか。何の変哲もない穏やかな日々の中で、相手と波長が触れ合う。その瞬間が途轍もなく懐かしかった。なんとなく分かる気がします。私も相応に年をとっていますから・・・お若い先生には、ピンと来ないでしょうね」

 医師はふと思い出して、氷野に聞いた小説の話をした。
「恋に代役は要らない。母はそう言いたかったのかも知れません。恋愛は感情です。個人的なものです。強制は出来ない。・・・母の記憶は使って頂いて構いませんよ。お役に立つかどうか分かりませんがね」
 息子は画面の中の父を懐かしそうに見た。
「よろしければ、データのコピーを差し上げますよ」
「いいですか?」
 医師の提案に息子は喜んだ。その笑顔は父に似ていた。

 氷野の息子が帰った後、医師は拍子抜けした顔で頭を掻く。
「参ったなぁ、もっと派手な画像が撮れると思ったんだが。今の世代は刺激的な動画に慣れてるから、これじゃ使えねーよ」
 どさっと椅子に座り、もう一度一人で画像を視る。

 ただの日常だ。
 本当に、何処にでもある日常の風景だ。

 その時医師のポケットのスマートフォンが鳴った。
「・・もしもし?ああ、もう少しで帰る。飯?・・・いいよ、悪阻だろ。俺はご飯に納豆で適当に食べる。お前は?・・・じゃあ帰りにアイスでも買って帰ろうか。・・・分かった、抹茶な。いいよ寝てて。じゃあ」
 医師は画像の再生を停めた。

「画像をライブラリに保存、と。タイトルは・・・『朝食の純愛』とでもしとくかな」

 機械の電源を切る。部屋の照明を消す。
 そして医師は妻の待つ家へ帰って行った。



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