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「幻影」(芥川龍之介「蜃気楼」の二次創作①)

「あの、この髪型にして下さい」
 女性客が美容師にスマートフォンを差し出す。若い女性のSNSが写っている。顔の部分は加工されていて分からないが、手入れの行き届いたウェーブヘアや着ている服、部屋のインテリアからセンスの良さが窺われる。客は
「若い子の髪型だから恥ずかしいけど、お願い出来るかしら」
と控えめに微笑む。
「この感じだと髪色はかなり明るくなりますね。ウェーブのかかり具合も同じ位が宜しいですか?」
「ええ、これとそっくり同じにして下さい」
「かしこまりました。随分イメチェンですね!いいと思いますよ」
 美容師はニッコリ笑った。

 その日女性客は満足して家に帰った。夜になり、夫が帰宅する。
「ただい・・ま」
 玄関で迎えた妻を見て固まる夫。妻はふふっと笑い
「今日ね、美容院に行ったの。どうかしら」
「どうって・・俺は、前の髪型の方がお前らしいと思うけどな」
「やっぱり、若い子の髪みたいでおかしい?」
「まあ、お前が気に入っているならいいんじゃないか。疲れたよ。飯は」
「出来ているわ。今日はミラノ風カツレツにトマトソースをかけたのとポテトサラダ。いつも和食が多いから、たまにはね」
 妻の機嫌が良いのは、髪型を変えて浮かれているのだろうか。
 夫は一瞬不思議な顔をした。

「いらっしゃいませ。藤枝様、今日はどうされますか?」
「肩までのボブにしたいんですが」
 女性客はまたスマートフォンの画面を差し出す。美容師が
「あら。先月の髪型はお気に召しませんでした?」
「そうじゃないわ。色んな髪型を試してみたいだけ」
 美容師が画面を覗くと、どうやら先月と同じ女性のSNSらしい。
「これだと、20センチは切ることになりますけど宜しいんですか?」
「いいのよ、バッサリやってちょうだい。とにかくこの人と同じ髪型で」
「かしこまりました」
 先月と同じ美容師は髪を切りながら話し掛ける。
「ああいう雰囲気がお好きなんですか?さっきのSNSの人、○○の服着てましたね」
「あら、あのニット○○ってブランドなの?」
「ええ、駅前のビルにテナントが入ってますよ。下に着ていたスカートは△△でしたけど、それも同じフロアにあります」
「まぁ、詳しいのねぇ。教えてくれてありがとう」
「お役に立てました?よかったです」
 美容師はまたニッコリと笑った。

 女性客は次の月もSNSと同じ髪型を希望した。美容師は訊いてみた。
「藤枝様はああいう雰囲気がお好きなんですね」すると客は
「嫌いよ」と眉を顰めた。すぐに
「あら、ごめんなさい」と謝る。
「いいのよ、自分で注文しているんだから。いつも上手にしてくれてありがとう」
 表情に翳りが見えた。その日の施術が終わり、藤枝を店の外まで見送る時に美容師は思い切って声を掛けた。
「あの、失礼ですが・・」

「お帰りなさい」
 妻は夫を玄関で迎える。夫は怯えを隠しながらただいまと答える。新しい髪型にはもう触れない。
「今日はバジルのパスタとチキンのサラダよ」
「ああ・・・」と夫はため息のように答える。
「お前、最近痩せたんじゃないか」
「分かる?このスカートが履きたくて頑張ったの。このブランド細身のデザインが多いんですもの」
「そうか・・・」
 妻の笑顔から夫は目を逸らした。
「今日はね、一人で映画館に行って××っていう映画を見たの。今話題なんですって」
と無邪気に笑う。夫は答えない。そしてリビングに入って立ち尽くした。
「・・・・オイ!これはっ・・・」
「模様替えをしたの。ね、いいでしょう?」
 夫は、薄氷を踏むような足取りで新しいカーペットを踏む。新しいテーブル、新しいソファ。新しい照明器具。

「お前・・・知ってたんだな。何時からだ」
「何のこと?」
「だから!・・・」
「変な方ねぇ。妻がお洒落に目覚めて家の中も綺麗になって、何がご不満なの?」
 妻は嫣然と微笑むが、その姿は夫の目に痛々しい。四十前の妻が二十代に流行っているような髪型や服で装いを凝らしている。家の中は若い女性の一人暮らしのようなインテリアに変わっている。これと同じ部屋を夫は知っている。だが・・・何故妻も知っているのだ。

「・・・一体何がしたい」
「何って」
 妻はキョトンと首を傾げ、うふっと笑う。以前はそんな笑い方はしなかった。
「とりあえず、今はお湯を沸かさなきゃ!待っててね、あとはパスタを茹でるだけよ」

 妻がキッチンに立つ僅かな間に夫は寝室で電話を掛けた。夫はその後何食わぬ顔で食事と入浴を済ませ眠りに就く。翌朝、妻は寝室に仕掛けたボイスレコーダーを手に取った。

 山中の夜。崖の下に転がる女の死体。崖の上には藤枝夫妻の姿。夫は愕然と膝を落とし放心している。妻は冷静に崖下の死体を見下ろす。死体と妻は全く同じ髪型と服装をしている。
「間違えたのね」
と妻は言う。
「暗いものね」
と妻は言う。
「安心してね」
と妻は言う。
「私、黙っているわ。あなたが彼女を突き落としたこと。もう帰りましょう」
 妻は夫を優しく促す。
「私が運転するわね。さ、車に乗って」
 夫妻が立ち去った後に茂みから現れたのは、藤枝の妻の担当美容師だ。手にカメラを持っていた。

 それから二ヶ月後。
「いらっしゃいませ」
 店員の声に藤枝の妻は顔を上げた。カフェに入ってきた美容師の女は向かい側に腰を下ろした。藤枝がメニューを差し出す。
「色々と有難う。あなたのおかげだわ」
「いいんです。妹には私も手を焼いていましたから・・」
 美容師の顔が歪む。
「・・藤枝様に妹のSNSを見せられた時、この人も妹のファンなんだって思って、内心イライラしてました。でも・・・違ったんですね」
 藤枝はほろ苦く笑う。
「主人の不倫には随分前から気づいてたの。相手が特定できたのは、興信所に頼んだから。その探偵さんがあのSNSを教えてくれたの。結構人気者だったのね」
「あんなの嘘だらけです」
 美容師が吐き捨てる。
「モデルって言っても一回雑誌に載っただけで、収入が無いから私のマンションに勝手に転がり込んで来て。しかもそこにパトロンの男の人を連れ込むだなんて。私の仕事中に入れていたから、ご主人はあそこが私のマンションだなんて知らなかったかもしれませんが」
「私は興信所の調査で、姉のあなたが勤める美容室を知ったの。探りを入れたくて・・・でもあなたが私を、藤枝の家内って分かったのはどうして?」
「妹から聞いてました。相手のお名前と社長さんだってことと、趣味が登山とか・・ご主人、登った山の絵葉書を妹に送ってきたことがあったんです。それが部屋に飾ってあって。差出人の住所にご自宅が書いてありました」
「あの人も迂闊ね。それと美容室の会員情報を調べたの?」
「いけないことですけど、奥様も妹の被害者なんだと思うと。あの・・・私も昔あったんです。妹に婚約者を寝取られて破談になりました。妹はそういう、クラッシャーみたいな所があったんです」
 ふぅ、と藤枝はため息をついた。
「私もね、主人に愛人がいるのが分かってもどうしたらいいか分からなくて。主人を責めても、癒しを求めて愛人の元へ走るだけだと思ったし。あの人に罪悪感を与えたかったのよ。どうだったかしら。愛人のマンションから自宅に戻ると、そっくり同じ格好の妻が居るって。妹さんがSNSに載せていたメニューも作ったりしてね。あなたからの情報提供も役に立ったわ。それでね、これはあなたへの気持ち」
 藤枝は金の入った紙袋を差し出す。
「でも・・」
 美容師は躊躇する。
「どんな関係だったとしても、あなたは実の妹さんを亡くした訳だから。現場の動画も撮ってくれたし」
 封筒ではない、紙袋を折り曲げたものだ。中身が札束だとしたら少なくとも五百万は入っているだろう。
「少ない位だわ。あの動画であの人を一生縛っておける」
 藤枝の余裕に満ちた微笑みに、美容師は戸惑う。
「離婚されるんじゃないんですね。私てっきり」
「だってあの人が可哀想ですもの。可愛い愛人を自分の手で・・・」
 こくりと珈琲を飲む。
「だからね。時々はまた、妹さんの幻を見せてあげるの。彼女と同じ服装と髪型をしてね。そういうの、一緒に暮らしていないと出来ないじゃない。うふふ」
 嫣然と微笑み、優雅にティースプーンをカップの中で回す。小さなフォークでケーキを切り分け、控えめに開いた唇の中へひらりと入れる。
 美容師の彼女は思わず見惚れた。
 仕事柄綺麗な女性は見慣れている。だが、こんなにも余裕に満ちた優雅な表情は見たことがない。
 ふと、
(ご主人は幸せかもしれない)
と思った。
(優雅な妻と、奔放な愛人の幻。例え脅迫に縛られても、その両方が得られるなら)

 その後美容師は独立し自分の店を持った。資金は藤枝からの謝礼と妹の死による保険金だ。藤枝は新しい店の常連になった。
 そして時折、美容師と夫人は幻を作るのだ。
「ねぇ。またあの髪型にしてくださる?」
「かしこまりました」
 妹が着ていた服も藤枝に提供した。妹の仕草や癖も伝授した。
 蛤が吐くのは蜃気楼。女が吐くのは・・

 幻影の吐息にむせ返る夫は、本当に幸せかも知れない。

                            (了)

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