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「継承」(川端康成「片腕」の二次創作(2))

「起こして」
 夫人が差し出した右手を夫は軽く握り、そっと引いた。嫋やかな右手に白い腕と細い体と、気難しそうに眉を顰めた顔が付いてきた。
「有難う」
 ベッドから起き上がった夫人が右手を閃かすと、夫はわきまえたように夫人の寝巻きを解いて体を出し、部屋着を被せて肌を覆ってゆく。
「他のがいいわ。刺繍が入ったの」
「刺繍ってどれだい」
「並べて。そうね・・・白い方。薔薇の刺繍の」
「分かったよ」
 夫はまた夫人の肌を剥いて、別の部屋着を被せる。
「左の袖はどうする。結ぼうか」
 夫が訊く。
「そのままでいいわ」
 夫人は部屋着の、空っぽの左袖を靡かせて立ち上がる。
「君は今日診察の日だから、朝食後に先生がお見えになるよ。メイドに言ってある」
「あなたは?」
「今日は仕事だ」
 夫は夫人の肩に手を添えて労る姿勢で階段を降りて行く。階下でメイドが待機していたが、夫人は無視してテーブルまで夫に案内をさせた。
「時間だからもう行くよ」と夫は出かける。
 残された夫人はつまらない表情で小さなフォークを摘み、刻まれた果物と焼き菓子を形ばかり口にすると誰の手も借りずに二階の私室へ戻った。

 階下に残されたメイドは他の使用人と陰口を叩く。
「全く奥様は幾つになってもお嬢様気分というか」
「そうそう。他に人手はあるのに、何も旦那様をこき使わなくても」
「見たでしょう、手を借りなくても一人で歩けるのよ。旦那様を煩わせるのは唯の我儘なのよ」
「いくら事故で片腕を失くしたって言ってもねぇ」
「旦那様も人が良いから」

 呼び鈴が鳴り医師が現れた。
 慣れた様子で夫人の私室に上がり、社交辞令を混じえた診察を済ませて階下へ降りて来る。
「先生、何かご指示はございますか」とメイドが尋ねる。
「うむ。いつも通りだ。万一奥様が痛みを訴える時には痛み止めのお薬を。あとは、何か変わりがあったら連絡をしなさい。夜中でも構わない」
「奥様はお幸せですわ。大病院の院長をされていた方が主治医だなんて」
 医師は若いメイドの口調に敬意が欠けていると感じた。
「悲運に遭われた方にその言い方は、適切でないね」と嗜める。
「・・失礼を申しました」メイドは素直に謝った。
 医師は口調を和らげると
「奥様とはご結婚前からのお付き合いだ。我儘で気難しい方だが、根は悪い人ではない。困ったことがあったら私に言いなさい。私の方から旦那様にやんわりと伝えておくよ」
「とんでもない。不満などありませんわ」
 年嵩のメイド長が高い声を上げた。
「このお宅など、お仕事は随分楽な方ですよ。旦那様はお優しいし、奥様も大人しい方で。仕事の量が少ない割に随分とたくさんのお給金を頂戴しております。ここで不満を言うようなら、どちらのお宅に勤めても務まりませんよ」
 メイド長は他の使用人たちにも言い聞かせるような口調で言った。
「そんなに厳しく言わんでもいいよ、なぁ君たち」
 老医師は取りなすように柔らかい笑みを浮かべる。その医師が玄関へ向かおうとして躓いた。
「おっとと・・・」
「大丈夫ですか先生」
 医師は大丈夫だと答えて屋敷を後にした。

 その夜医師は離れの書斎で長く考え込んでいたが、電話で息子を呼びつけた。息子は敷地内の本宅から庭を隔ててやって来た。
「父さん。何か御用ですか」
「うむ。考えれば私もいい年だ。お前にひとつ引き継いでおかなければならんことがある」
「病院のことですか」
「個人的にだ。いいか、心して返事しろよ。お前口は堅いだろうな」
 元院長は息子の目をジッと見た。
「何です一体・・・ええ。言うなと言われれば寝言にすら言いません」
「間違いないな。では話そう・・・半年前の〇〇夫人の手術の件だ」
「父さんと私の二人で手がけた手術ですね。私も気になっていました」
「ふむ?」
「事故で挟まれた腕が壊死寸前だという説明で左腕を切除しましたが、あれはどう考えても不自然でしたから。他に助手を付けなかったのも、何か理由があったのでしょう」
「うむ。理由な・・それは後にしよう。切除した左腕が病院に保管してあるのは知っているな」
「ええ。他の標本と分けて特別なケースに入っていますから」
「引き継ぎというのは、もし夫人が亡くなって葬儀をする時には、その左腕も一緒に弔って欲しいとのことだ。つまり元の姿で葬るということだな。何十年後か知らんが、その時にわしは生きてはおるまい。だからその件をお前に引き継ぎたい」
「分かりました」
「ただし、左腕が保管されていることを夫人はご存知ない。この件は夫の〇〇氏から依頼されたものだ。だから、夫人本人にも話してはならんぞ」
「え・・どういう事です」
「それを今から話そう」
 老医師はグラスにブランデーを注ぐと息子に渡し、自身もグラスを前に話し始めた。

 ・・・〇〇夫人とのお付き合いは、あの方が赤ん坊の頃からだ。元々わしはご実家の掛かり付け医だった。あの方の生い立ちは少々複雑でなぁ。まずご両親がとても不仲で、それを子どもの前で隠そうともしなかった。おまけにお二人とも仕事や社交で忙しく、家庭教師や使用人に預けっ放しで。その家庭教師たちも決して良い人間ばかりではなかった・・・あの方は、知識や教養は授けられたが愛情を知らない。頑固で意地っ張りで我儘な子どもに育ってしまった。そのまま社会を知らずに今のご主人に嫁いだわけだから、全くその性格のまま大人になってしまったんだ。結婚も勿論見合いだよ。父親が有能で大人しい男を適当に見繕った。それでも、あの方自身が子どもを産めばもう少し性格も変わったかも知れない。だが後から分かったが、あの方は子どもの産めない体だったんだ。一度だけだなぁ。診察でそれが分かった時、一度だけあの方はわしの前で泣いたよ。子どもが欲しかったんだろう。子どもを産んで、自分がそうされなかった分愛情を注いで育てたかったんだろう。口には出さなかったがね。それから一層あの方は意固地になってしまわれた・・・

 腕とは関係の無い話を息子は黙って聞いていた。

・・・ご主人は可愛げのない妻に最初は閉口しただろうな。やがて諦めたように見えた。もしかしたら浮気をひとつ二つしたかも知れんが、わしは知らん。しかしお二人ももう若くはない。普通であれば子育てを終えて二人で寄り添っていこうと考える頃さ。おそらく夫人にはそのお考えはあったかと思う。ただ、それを口にするような、顔に出すような方ではなかった。そんな時にだ、あの事故に遭われたのは・・・不思議な事故だった。お一人で庭を散策中、木が倒れて左腕が潰されてしまった。奥様は息も絶え絶えにわしの名を呼んだらしいよ。先生を、先生を呼んで。他の医者には掛かりたくないと。そしてあの方はわしに頼んだ。腕を切り落としてくれとな・・・

「何ですって?」

「例え治る怪我でも構わないから左腕を切ってくれと言うんだ。わしは拒んだよ。だが夫人は、もし聞いてくれないならメスで喉を掻き切って死ぬとまで言うんだ。わしは拒めなかった。何となくな、そこで何となく・・・あの方がどういうつもりなのかが分かったんだ・・・」

「どういうことです」

「不自由な体になれば遠慮なくご主人に甘えられる。そう考えたんだ・・」

 息子は絶句した。

「木が倒れたのも誰も見ておらん。もしかしたら・・だからわしは言うことを聞いた。あの方のご気性を、ずっと知っておるからな・・・」

 老医師の目に涙が浮かんだ。

「手術の後ご主人が駆けつけたのはお前も知っておるだろうが、その後わしと二人きりで話したのは知るまい。ご主人は左腕をジッと見て、これをとって置いて欲しいと言った。大事に保管して、もし夫人が亡くなる時には一緒に葬りたいと。ご主人と私との話だ。夫人は知らない。その時にわしは分かったんだ。ああ、この人はあの方を愛してくれている。あの我儘で意地っ張りな妻を、それでも愛してくれる人がここに居たのだと」

「そんな。お二人とも愛し合っているのなら何故・・」

「それを表せない夫婦もいるということだ」

 老医師は軽く微笑んだ。

「ご主人は今、会社を人に譲る為に奔走しているところだ。優良な事業だから引く手数多だろう。引退して妻との時間を増やすつもりだと話してくれたよ。それを聞いてな。わしの年齢もあるし、この大事なことをお前に引き継いでおこうと、そう思った次第なんだ」

「引き継いでくれるな」老医師が息子を見る。

「はい・・・」

「良かった。夜分にすまなかったな。もう帰りなさい」

「失礼します」

 息子は庭を隔てて本宅に戻った。家では寝巻姿の妻が待っていた。夜中に呼び出されたのは何だったのかと尋ねられたが息子は黙っていた。
「内緒ですか。しょうがないですねぇ。お茶でも淹れましょうか」
 息子は妻を見た。化粧を落とした長閑な顔の妻を。差し出された湯呑みから温かな湯気が立ち上る。
「ありがとう」
 湯呑みを手に取った。妻は内心あら、と思った。滅多にお礼なんて言わないのに。
「ありがとう」
 息子はもう一度言った。妻は怪訝な顔をしながら
「湯呑みは置いといて下さいな。朝洗いますから」
と寝室に戻った。長閑な妻は夫の目に浮かぶ涙を見ないまま、安らかな眠りに落ちていった。

                      (了)

 

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