「注文の多いお弁当」(宮澤賢治「注文の多い料理店」の二次創作①)
*第7回book shorts 8月期に掲載。
午前二時。額を何かに突かれて目を開けると、鶏が居た。
「えっ?」
鶏。
俺が呆気に取られて見ているうちに、ぱたぱたっと羽ばたきをして何処かへ居なくなった。
「昨夜、変な夢を見たよ」
翌朝妻に言うと、なぁにそれ、と笑った。
「鶏なんて。何かの見間違えでしょ」
「いや、眼鏡がないからぼやけてたけど、絶対に鶏だった。妙にリアルでさ」
すると妻は心配そうな顔をした。
「書斎のベッドの寝心地が悪いのかしら。ごめんなさい」
妻の妊娠が分かってから、夫婦の寝室は別になった。俺の鼾でよく眠れないと言われ、妻は二階の寝室を一人で使い、俺は一階の書斎にソファベッドを買って眠るようにしている。
「そうでもないんだが。もう出かける」
玄関に生ゴミが入った袋が置いてあったが、一瞥して通り過ぎた。朝から会議があるのに、スーツに匂いをつけたくない。こういう細かな心配りは大事だ。
妻は笑顔で「いってらっしゃい」と送り出してくれた。妻は家事、俺は仕事。うちは役割分担が出来たいい夫婦だ。
ぴちゃん。午前二時。何か水滴が頬にかかって目が覚めた。
「えっ?」
魚。
枕元で魚が跳ねている。
俺が呆気に取られて見ているうちに、ぴちぴちと跳ねながら何処かへ居なくなった。
変な夢だが、二度も報告することじゃない。妻には黙っていた。
「主任?難しい顔して、どうしたんですか」
会社でエレベーターを待っていると、部下の女の子に声を掛けられた。
「いや、ちょっと夢見が悪くて」と言うと
「大丈夫ですか?」
と心配してくれた。可愛い。
その後エレベーターを降りながら小声で、
「今度、あたしの夢も見て」
と囁く。
「馬鹿」
俺も小声で言い返して背中を小突く。部下は俺の不倫相手だ。
気づいたのは三日目のことだ。
三日目は鰻だった。手ににゅるにゅると纏わりつくものが居て、「わっ?」
と目覚めると、布団の中で鰻がのたうち回っていた。
「な、何なんだよ一体!」
薄暗がりの中で背中を光らせる鰻は蛇のようで気味が悪く、のたうち回りながら何処かへ消えていった。
「まさか・・・」
俺の予感は当たった。その日の弁当のおかずは鰻の蒲焼。
実に美味かった。
思い返すと、初日の弁当のおかずは鶏の唐揚げ、二日目は焼き魚。そして鰻の夢を見た日は蒲焼。偶然にしては出来過ぎている。(どうせなら宝くじの番号でも分かりゃいいのに)
昼飯の献立の予知夢なんて、みみっちい。笑い話にもならない。
「はい、これ。お弁当」
部下の女の子がコンビニの袋を差し出す。
「早く取って。人に見られちゃう」
「うん、ありがとう」
渡してくれたのは手作り弁当だ。使い捨てのプラスチック容器とコンビニの袋でカモフラージュしてある。妻が悪阻で料理を嫌がると言うと、作って来てくれるようになった。会社近くの路地裏が受け渡し場所だ。
「今日は中華風のお弁当にしたの。じゃ、後でね」
彼女は俺の頬にチュッとキスを残して走り去っていった。俺は辺りを見回して、人目が無いのを確認して会社へ向かった。昼休みに包みを開くと。
(ああ、成程)
天津丼か。今日の夢は、卵だったからな・・・
それからも変な夢は続いた。多少気味は悪いが、実害は無い。仕事は充実しているし、彼女ともうまくいってる。心配といえば妊娠している妻の体調位か。
倦怠感が続き、体が思うように動かないらしい。次第に家の中が雑然としてきた。洗い物も溜め込むようになり、掃除も行き届いていない。気づいて注意しても、すぐに動かない。料理も野菜を刻むだけのサラダとか、冷凍食品とか。
「なあ。早めに実家に帰ったらどうだ」
妻は俺が家に帰っても出迎えず、ソファで横になっていた。夕食も、近所のスーパーの惣菜を盛り付けただけのものだ。
「うん、でも家の事が気になって・・・」
「気になっても、出来なきゃしょうがないだろ。産む時も世話になるんだから、今から行っておけよ」
妻の実家は産婦人科なのだ。これ程安心な所は無い。
「そうしようかしら・・」
「明日にでも連絡して、迎えに来てもらえ」
妻に助言し、文句も言わずに惣菜を食べる。良い旦那じゃないか、俺。
「悪いダンナさんね」
ちょん、と彼女が俺の鼻をつつく。
「こら、何するんだよ」
彼女の体をまさぐる。仕事帰り、ホテルのベッドの中だ。
「ねぇ、今日はゆっくりだけど、いいの?」
「ああ。女房は実家に行ったから」
家の事を気に掛ける妻を、俺は笑顔で見送った。義父はわざわざ電話してきて、君には迷惑を掛けてすまないと言ってくれた。
「いやあ、傍で具合悪そうに寝ていられるよりもいいですよ。食べ物は買えば済むし、クリーニング屋も近所ですし、不自由はありません。こちらこそよろしくお願いします」
とか言って電話を切ったのが昨日の事だ。
「赤ちゃんかあ」
ドキッとした。実は以前、彼女には中絶させたことがある。
「産んでからも、しばらく奥さんは実家?」
彼女は無邪気に俺の腕に縋ってくる。
「そう、だね。だからしばらくはゆっくり会えるよ」
「うん」
良かった。昔の事を蒸し返すつもりは無さそうだ。
俺は彼女の体を堪能し、その日はぐっすりと眠った。
相変わらず例の夢は続いた。午前二時に食材の夢を見る。昼にはその料理を食べる。豆を見たら豆ご飯、という風に。夢を見ない日もあるが、見た日の的中率は百発百中だ。俺は元々、超常現象を全否定する程頭の固い人間じゃない。献立を想像して楽しむ位の余裕も出てきた。
(A5ランクの肉牛でも出ないもんかな)
書斎にどーん、と牛一頭。面白いじゃないか。
「えっ、居なくなった?」
「ああ。そっちに行っておらんかね」
ある日。仕事を終えて帰ろうとすると、義父から妻が居なくなったと連絡が入った。
「荷物はあるんだ。財布だけ持って出たらしい。あの、言いにくいんだが。娘は最近情緒不安定でね。妙な事を言っていたんだ。その、君が浮気をしているとか何とか」
「そんな!していませんよ、う・・してません!」
周りが見ている。俺は慌てて会社を出た。義父によると、妻は最近不安定な様子だった。優しく訳を問うと、俺が浮気をしていると泣きながら訴えたと言う。
「まあ、行くのはそっちの家しかないと思うんだ」
本当に財布だけ持って出たらしく、連絡がつかない。
「分かりました。今日は急いで帰ります」
電話を切る。まずい。急いで帰らないと本当にまずい。昨夜は家に彼女を呼んで夕食を作らせ、後片付けもしないまま書斎のベッドに連れ込んだからだ。
「あ・・・」
「お帰りなさい・・・」
妻は家に居た。
「料理、したんだ・・・」
「あ、ああ。俺もたまには・・」
「何作ったの・・・」
「鮭のソテーと、サラダと・・・」
「ふうん・・・」
妻は、俺に背を向けて立っている。シンクの中には洗っていない食器が、二人分。
「あ、あの。昨日は・・」
「疲れちゃった・・・」
俺の下手な言い訳は遮られた。妻はソファに横になる。
「二階のベッドに連れて行くよ」
そう言って俺は妻に肩を貸した。腹はまだ膨らんでいない。まあ、あまり大きくならない妊婦も居るとは聞いたことがある。だが顔色は悪く、青白く浮腫んでいる。
「ねえ。本当なの」
ぎしり。階段が軋む。
「匿名で電話があったの。実家の病院に、あたし宛に」
ぎしり。
「貴方が浮気してるって・・」
「馬鹿だな。何言ってんだ」
ぎしり。
「そうよね・・誰かしら」
ぎしり。
「あの女の声・・」
俺の脇と顔と背中と、体中から汗が噴き出す。
「嘘だって。そんな。何かの間違いだよ。違うって!」
妻はにっこりと笑った。死んだ魚のような顔で。そして、
「もう寝るわ」
とベッドに倒れ込んだ。俺は恐ろしいものを仕舞うように、そっとドアを閉めた・・・
〈妻に電話したのは君か?〉
電話だと大声を出してしまいそうだ。俺は怒りを抑えながら彼女にメッセージを送った。
〈何のこと?〉
彼女ははじめ、白を切った。
〈冗談じゃないよ。しかも向こうの実家に電話するなんて、君はそんな子だったのか?〉
〈どんな子だと思ってたの?都合よく玩具になって、妊娠しても大人しく中絶させて、その後も何でも言う事聞いてくれる可愛い部下ちゃん?そっちこそ自分何様だと思ってんの。あなた自惚れてるけど、思ってる程会社の評価も良くないから。女癖悪いのもバレてるからね。あたし、今までの証拠ぜ〜んぶ保存してる。社内メールで一斉送信しても全然構わない。中絶した時の領収書の写真も流すわ。あんたなんかクビになって、路頭に迷えばいいのよ〉
俺はスマホの画面を見て言葉も出なかった。
ピロン。画像が送られて来た。俺が彼女をホテルに誘うメッセージのやり取り。
ピロン。何時の間に撮られていたのか、ホテルでシャワーを浴びている俺。曇りガラスの向こうの俺の裸身と、財布から抜かれた俺の運転免許証が並んでいる。
ピロン。ピロン。ピロン。画像と、彼女からの言葉の嵐。
〈そのうち離婚するって言ったくせに〉〈奥さんとずっと寝てないって言ってたじゃない〉〈嘘つき〉〈最低〉〈あたしの時間を返して〉
最後に、何故か。
〈ねえ。ひとつだけ感謝してる。おかげで料理の腕が上がったわ〉
「何だ?」
〈明日を楽しみにしてて。これが最後。特製のお弁当作ってあげるから。特別なもの、食べさせてあげる〉
それを最後にメッセージは途絶えた。どういう意味かと訊き返そうとするとブロックされていた。
「一体何なんだ・・・」
俺は書斎で必死に対策を考えた。一斉メールは本気だろうか。明日朝イチで会社に行って、彼女のパソコンを壊してしまうか。スマートフォンはどうしたらいいんだ。妻の実家も問題だ。この家を建てる時に頭金を出して貰っている。怒って金を返せとか言われたらどうする。
そうだ、とりあえず実家に連絡をしておこう。妻は家に居ましたからご心配なくと、殊勝な婿を演じておこう。今何時だ。俺は時計を見た。
午前二時。
「えっ・・・」
ぺたり。
背を向けているサッシの硝子に、何かが貼り付いた。
ぺたり。
ゆっくり振り向くと、そこには妻が。
「わああっ?」
何でだ?二階に居る筈の妻が庭に立っている。硝子に両手をついて、虚ろな目で俺を見ている。待て待て待て待てこれは夢か?夢なのか?二時だぞ、午前二時!俺が見るのは、弁当の夢だ!その日の昼飯の夢の筈なんだ!
な、ん、で、妻、を、見るん、だ、よ!
〈特製のお弁当〉?え?〈特別なもの、食べさせてあげる〉って、え?
「嘘だろう!」
その時二階から物音がした。ガタゴトッと、人が格闘するような音が。
「やめろぉっ!」
俺は夢中で二階へ向かった。ダダダダダッと階段を駆け上り、あと一段という所で
「あっ!?」
頭と足が逆転し、俺は真っ逆さまに階段から・・・
ひと月後。喫茶店で二人の女性が向かい合っていた。
「お疲れ様。色々と有難う」
「そんな。奥様にお礼を言われるなんて」
「いいのよ。本当はお詫びをしなきゃ。主人のせいで辛い思いをさせたわ」
「いえ・・・」
未亡人となった妻と、例の愛人の部下だ。
「元々ね、ちょっとモラハラな所があって悩んでたの。そこへ貴女が、主人の事を話しに来てくれたから」
「あの時は本当に、すみません。ご主人と別れてだなんて・・」
「だからいいのよって」
元妻はふうと溜息をついた。
「私が妊娠したことにして、あの人が態度を改めれば許そうと思ったの。最後のチャンスだったのにあの人ったら」
「でもよく騙せましたね?妊娠しただなんて」
「父が協力してくれたから。あの人もねぇ、一度位診察に付き添ってたら分かったかも知れないのに」
元愛人がくすりと笑った。
「でも、ちょっとヘンな作戦でしたね。お弁当作戦」
「簡単な料理のひとつもしない人だったから、そのお仕置きも兼ねてね。面白かったわよ?ピアノ線でね、こう、鶏を引っ張ったり」
うふふふと二人は顔を見合わせて笑った。
「ご主人の事故死、疑われませんでした?」
元愛人が声を潜めた。
「全然。証拠残してないし、私たち一見上手くいった夫婦だったから」
「私、それだけが心配でした」
「そうだ。あなた会社辞めたんでしょう?失礼でなければ、これ受け取って欲しいの」
元妻が分厚い茶封筒を差し出す。
「そんな。受け取れません」
「いいのよ。父からの御礼も入ってるわ。ろくでもない婿を退治できたって喜んでるわよ、ここだけの話。ね、お願い受け取って」
押し問答があったが、結局元愛人は受け取った。
「有難うございます」
「お互いに、新しい生活をスタートさせましょうね」
「そうですね、お互いに」
「さ、珈琲で乾杯でもしましょうか。ケーキも美味しそうよ」
元妻がメニューを差し出し、元愛人が覗き込む。二人とも晴れ晴れとした顔をしていた。
頃合いを見たウエイターがテーブルに近づく。
「ご注文は、お決まりですか?」
(了)