見出し画像

「窓際のデイジー」(原作:伊藤左千夫『野菊の墓』)

 柏木の元に同窓会の通知が届いたのは3月のことだった。
 参加を打診すると妻は快く承諾してくれた。
「ゆっくりしてきたら」
 妻は穏やかに微笑んだ。

 50歳を節目に高校の同窓会が企画された。年齢的に子育てもひと段落、仕事も落ち着いた頃で丁度良い。開催は8月の盆休み。幹事は元学級委員長の谷中といい、当時から面倒見の良い男だった。
 数日後、谷中から連絡があった。

『柏木、久しぶり』
「おお谷中」
『案内が届いた頃かと思ってな。どうだ、来られそうか』
「大丈夫だろう。返信はもう送ったぞ」
『ちょっと伝えたくてな。遠矢さんも参加するそうだ』
「・・・」
『彼女、地元に帰っててな。旧姓に戻ってる』
「そうか・・知らなかった」
 谷中は少し慌てた。
『いや、別に変な意味じゃないぞ。お前ら急な別れ方したから気にしてるんじゃないかと思って。余計なお世話だったかな、すまん』
 谷中の人の良さが思い出されて柏木は苦笑する。
「謝ることじゃないだろ。わざわざ有難う。皆んなに会えるのを楽しみにしてるよ。じゃあな」
 電話を切った後、柏木の胸の奥で何かが動いた。
 遠矢真由美。
 初恋にして最大の恋の相手。

 柏木と遠矢は高校の演劇部だった。柏木は裏方を務め、遠矢は常に舞台の中心に居た。華やかな遠矢は校内でも目立つ存在だった。そんな彼女が何をどう見染めたか柏木に親密な態度を見せ、交際に発展した。柏木の高校生活は遠矢の色に染まった。
 彼女と恋愛していた頃ほど感情の起伏が激しかったことはない。
 彼女が笑えば嬉しく彼女が泣けば悲しい日々だった。
 しかし高二の終わり、突然交際は断ち切られた。遠矢の両親が離婚して転居することになったからだ。
 一時は母親の実家に身を寄せる。その後新しい住所が決まったら知らせると言いながら、遠矢は連絡をしなかった。柏木たちの世代では高校生がスマホや携帯を持つ筈も無い。
 初恋は未消化のまま胸の奥に沈澱した。
 時折掌に取り出して眺める遠き日の恋。
 その相手が遠矢だった。

「6月に健康診断があるから」
と本当のことを隠れ蓑に、柏木は食事制限と腹筋を始めた。密かに男性用化粧水を揃えて肌も整えた。二ヶ月後には
「部長、最近痩せたんじゃないですか」と部下に言われるようになり、自分でも顔立ちがスッキリしたのが分かるようになった。
(別に、何をどうしたい訳じゃない)
(再会する相手に見苦しい姿を見せたくないだけだ)
 心の中で言い訳をしながらも、実際に痩せてみると下心があるようで気が引ける。他人に言われる程外見が変わったのだから妻も気づいているに違いない。
 妻とは見合いで結婚して二十年が経つ。一人娘は大学に入ると同時に家を出て、夫婦の暮らしは日常会話と連絡事項と、少しずつ持ち寄る思いやりとで成り立っている。

 ある日の夕食時。
「お前の方は同窓会とか、無いのか」
 引け目から妻に尋ねた。
 妻は首を横に振る。
「別に予定はないわ。それよりあなた一泊って言ったけど、折角だから何泊かすればいいのに」
 他意のない笑顔だ。有難い筈なのに心の中で比べてしまう。地味でおとなしい妻と、華やかで感情的で周りを振り回す遠矢。
(あの顔立ちならば年を取っても美しい筈だ)
 面影に加齢の補正を加えても遠矢は美しい。
 妻は二つ年下だが相応に老けている。俯いて米を食む口元に小皺が見えた。

 梅雨を迎える頃には旧友からの連絡も増えてきた。そんな中、スマホに届いた画像に時が止まった。
<俺らの主演女優の現在!懐かしいか?>
 同じ元演劇部だった同級生から送られた遠矢の画像。相変わらず華やかで実年齢よりも10は若く見える。巻いた髪を白い首筋に流し、少し胸元の開いた服を着て優雅に微笑んでいる。同級生の仲介で連絡先が繋がり、メッセージのやり取りが始まった。
 始めは互いの近況報告から。
 朝晩の挨拶。
 他愛無い雑談。
 徐々に遠矢は昔の大胆さを取り戻し、誘わず拒まずといった曖昧な態度で柏木を翻弄する。
 距離を詰められる喜び。追われる獲物の感覚。
 胸に秘めておいた初恋の種が掌で騒ぎ始める。
 途切れた恋の続きが目の前に現れようとしていた。

 八月。
 同窓会の前日、荷物を入念に詰めて柏木は家を出た。
 危うい道を踏んでいることを自覚しながら胸は期待に膨らんでいた。前日からの前乗りにしたことも良いホテルを選んだことも、真由美には伝えてある。
 タクシーが駅に近づき、財布を出したタイミングでスマホにメッセージが届いた。真由美からだ。画面をじっと見る。
「お客さん、着きましたが」
 支払いを済ませてタクシーを降りても柏木は立ち尽くしていた。
 突然電話の着信音が鳴り響いた。
 通話を終えた柏木は再びタクシーに乗った。
「総合病院まで」

 2時間後。
「お前」
「・・あなた」
 ベッドの妻が振り向く。
「大丈夫だったのに・・・」
「そうもいかんだろう」
 電話は妻の職場の同僚で柏木も知っている人物だった。朝から腹痛がすると言っていた妻は遂に痛みに耐えきれなくなって職場で蹲ってしまった。身動きが出来ないほどの状態となり救急車で搬送されたそうだ。
「腸の炎症ですって。もう、そんなでもないのよ」
「薬で痛みが和らいだだけだろう。炎症が急に治るか」
「ごめんなさい。新幹線はキャンセルよね・・・予約を取り直してね。お金は私が払うわ」
「バカなことを言うな」
 妻の人の良さに柏木は呆れた。
 妻は、失態を犯したかのようにしょぼくれている。
「ヨメが入院ってのに同窓会もあるものか」
「死ぬほどの病気でもないんだし、様子次第では家にも帰れるって」
「お前・・・ちょっと黙れ」
「・・・・」
「寝たままでいいから・・少し、聞いてくれ」
 
 柏木はポツポツと話し始めた。
 同窓会で会いたい人が居た事。それが初恋の相手だったこと。連絡を取り合い、あわよくばという思いが互いにあったこと。静かに聞いていた妻は穏やかに微笑んだ。
「良かったんですよ。そうなっても」
 妻は夫の変化に気づいていたと言う。夫の気持ちが浮ついて、何かにあくがれている様子に状況を察知していたと。
「一度位いいと思ったんです。二度三度と重なるようならその時に考えようって」
 驚く柏木に今度は妻が昔語りを始めた。結婚前に好きな人が居た事。その人は死んでしまった事。
「落ち込んでいる私を周りが心配して・・・それであなたとのお見合いを勧められたんですけど。あの・・・」
 妻は躊躇いながら言った。
「あなた、その人と同じ名前だったんです」
「・・・・」
「顔も何も似てないんですよ。でもそれだけで会う気になって。ごめんなさい・・・」
 暫くの沈黙の後、夫が言った。
「似たもの同士だったんだな」
 言葉を続ける。
「見合いで会った時に・・・何処か、波長が合う気がした。お前も俺も、心の奥底に誰かを抱えてる者同士だったんだな」
「お前はもう相手に会えないから、俺が不倫しようとしても許そうと思ってくれたんだろう。でもな」
 苦笑しながらスマートフォンを取り出した。
「これを見てくれ。あまり気分がいいもんじゃないが」
 画面にはタクシーを降りる寸前のメッセージが映されている。遠矢が赤ら様にベッドへ誘う文言と、唇を寄せた画像まで添付されていた。
「これを見てスッと醒めてなぁ。浅ましいと思った。俺も想像はしていたのに勝手なもんだ。目が覚めた所へお前が担ぎ込まれたって電話を受けてな。ああ、これは神様のお告げだと思ったよ。スマン。お前は大変だったのにな」
「あなた・・・」
「彼女は薔薇のように華やかで美しい人だった。でも身勝手で周囲を翻弄することも多かった。大人になってからは知らないが、多分あんな女性と一緒に居ても落ち着かなかっただろうな」
 柏木は妻を見た。地味で大人しいまま老いた女の姿を。
「お前との生活を何事もなく平凡な日々だと思っていた。お前が、何事もなくしてくれてたんだよな。俺は家事にも育児にも参加しなかった。働くだけで済んでいたのは、お前のおかげだ。大人しくて慎ましいお前が居る家だから、俺もありのままに寛いでいられたんだ」
 妻も口を開いた。
「あの人は・・素敵な人だったけど夢見がちで、フラフラしてて。きっと、一緒に暮らすのは苦労したと思います。でもあなたは・・私を安心させてくれました。家事がどうのって仰ったけど、私は家のことが好きでしたし。あなたは私に穏やかな暮らしをくれました。いい娘にも恵まれて・・」

 小さな、小さな秘め事を二人は抱えて。
 それをやっと打ち明けあったのだった。
「なぁ、俺たちは上司の紹介で見合いをした。互いに義理で、余儀のない結婚をしたかも知れない。ただ二番目の恋を捧げあった相手だからといって、それが幸せじゃなかったとどうして言えるだろう」
 柏木は思う。
 二番目の巡り合い。それは、運命が道筋を変えただけだ。
「未遂とはいえ今回のことはすまなかった。お前は許すと言ったが、そんな事を言うヨメはおらんぞ」
「ふふ」
「詫びの代わりに俺はお前よりも長く生きる。一分一秒でもな。お前の恋人の代わりにお前を最期まで見届ける」
「あなた・・・」
「お前も長生きせんとな。ちゃんと治せよ」
 
 夏の日差しが窓越しに注ぐ。
 俯いた妻は肩を震わせて泣いている。
 柏木はその姿を、風に震える雛菊のようだと思った。
 
                              


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?