コトバアソビ集「斑猫と斑猫」
斑猫が道標と知ったのは手塚治虫の漫画だった。手塚先生は昆虫が好きで、それでペンネームに付けたそうだ。斑猫は人が進む方向に移動して、道案内するかのような動きをするとか。果たしてアスファルトの上に留まっていた斑猫は、私が近づくとツイッと前へ進んだ。
(あらほんと)
あの漫画は昔兄の部屋で読んだものだ。懐かしさと寂しさが過った。兄は四十の若さで死んだ。
(兄さんが生きていたら力になってくれたかしら)
私は悩みを誰にも言えずにいる。アスファルトからの照り返しが暑い。夏でも長袖で通す私は、理由を訊かれれば日焼け防止だと誤魔化す。本当は違う。虫がハンミョウなら私は斑猫。首から下は痣だらけだ。夫は日常的に暴力を振るう。力の加減が巧妙だ。痛みを与えつつ、病院へ行かずとも我慢していれば治る位の怪我を負わせる。そんな夫は外では柔和な紳士で通っている。
「いいわねぇ、今どき専業主婦だなんて」
羨ましそうに言われることもあるが、だからといって私の立場と替わってくれるだろうか。口煩い姑と、姑の言いなりになるマザコンの暴力夫。毎日馬鹿にする位なら何故私と結婚したのかと問いたいが、答えは分かっている。世間体と、姑に孫をプレゼントする為だ。結婚して二年経つがまだ子どもは出来ない。不妊は男性側に原因がある場合もあるのに、二人は一方的に私ばかりを責める。
「・・帰らなきゃ」
私は足を早めた。
家に帰ると、また姑が来ていた。夫は激務で平日の帰りは遅い。夫婦でゆっくり出来るのは週末しかないのに、姑は当たり前のように毎週末やって来る。それで子どもが出来ないのを責めるのだから呆れる。私は挨拶をして財布を夫に渡した。夫は買ってきた品物と財布の中身、レシートを細かくチェックする。二人前の食材を指定されて買い物に出たのに、家に帰れば姑がいるのだから、作った昼食のおかずは夫と姑に回して私は白ご飯を食べる。
(仕方ないわ。私は要領が悪いから。子どもも産めない不良品だから)
この二年、夫と姑に言われ続けた言葉が私を縛っている。私は体も心も斑模様だ。生まれたままの柔らかいところと、縛られて黒く乾いたところ。
(助けて)
の言葉も言えないままに日々を過ごす。
(あ、また)
次の週末も、買い物の途中で斑猫に出会った。
(同じ斑猫かしら)
驚かさないように避けようとしたら
「うわっ、危ねっ!!」
後ろから急に来た自転車が怒鳴りながら行き過ぎる。
(あっ)
自分の身よりも斑猫が気になった。ところが斑猫は空高く飛んで逃げた。
「あ。飛べるんだ・・」
飛べるのは知っていたが、道標をする時の低い飛行しか知らなかった。
(あんなに高く・・・ああ)
視線を誘われて青い空を見た。久しぶりの青い空。
「・・・綺麗・・・」
しばし見惚れた。
3ヶ月後。私は久しぶりに兄の墓を訪ねた。
嵐のような3ヶ月だった。空を見上げたあの日、私の目に弁護士事務所の看板が入った。いきなり事務所に入ったりはしなかったが、私は行動を起こした。
まず、自治体から配られる広報紙に載っていた法律の相談窓口を訪ねた。アドバイスをもらってモラハラとDVの証拠を保存した。スマートフォンでコツコツと録音し、体の痣も撮影した。普段と変わらぬ態度をとり、いつものように怯えながら。もし自由になるお金があれば弁護士に依頼しただろうが、私が使えるまとまったお金はなかった。あるのは斑猫のような体ひとつ・・・。
ある平日の昼間。私は夫の会社を訪ねた。
受付で名乗り、スマートフォンで夫と姑の声を再生する。
《なんだこの固い飯は!米も炊けないのか!》
《本当に妊娠しない体なのかしら。ちょっと、その辺の犬と寝てきなさい》
その場にいた人が注目する中で服を脱ぎ、痣だらけの半身を晒す。青紫と赤と黒。両手を伸ばし、ハンミョウのようにカラフルな体を広げる。
エントランスに響く罵声と打撲音、私の悲鳴。食器が割れる音。
私の盛大なミュージカル。頭がおかしいと思われたのだろう、受付嬢も周りの人も遠巻きに見ていた。仕上げは紙吹雪だ。
私は署名済みの離婚届を何枚も何枚も撒き散らす。そこで駆けつけた警備員に捕まり、私は社内の会議室に連れて行かれた。駆けつけた夫が私を殴ろうとするのを、一緒に来た夫の上司が慌てて止めた。
夫の罵詈雑言と上司が宥める声が交差する中、私は静かに言った。
「時間がありませんよ。もうすぐネットに動画が流れます」
二人が振り向く。
「主人とお母さんの実名と暴言、私の体の画像。この会社名。時間になったら自動的に配信されるよう設定しました。止められるのは私だけ」
「そんな・・」
「流れたら会社の評判は地に落ちるでしょうねぇ。あなたの人生もお終いね。止めて欲しければ離婚届に署名して」
「奥さん落ち着いてください。そんなことしたら、こちらもあなたを訴えますよ」
「いいわよ。でも、訴えられても私お金が無いの。損害賠償なんて払えない。それより配信を止める方がいいんじゃないかしら」
乱れた髪の下から二人を見上げる私の目は狂女そのものだろう。
失うものは何もない。
そして・・私は勝った。夫に離婚届へ署名をさせ、届出が受理されたら配信をやめると言って無傷で会社を出た。
逃走資金は僅かばかり用意していた。貴金属や時計を売ったお金で、私は元義姉の元へ転がり込んだ。亡き兄の妻だった人だ。
騒動を起こす前、夫が迷惑を掛けるのではないかと親戚に根回しをしていた。両親は早くに亡くなっている。元義姉にまで影響が及ぶとは思えなかったが、念の為に連絡するとうちへ来ないかと言ってくれたのだ。元義姉は兄の亡き後も独り身を通している。
「圭一さんが亡くなった時、遺産が私に多く残るように気を遣ってくれたでしょう。恩返しがしたいの」
相談して、弁護士費用を一時借りることにした。
「証拠があるから慰謝料は取れると思います。そこからお返ししますので。すみませんが、仕事を見つけ次第出ていきますのでそれまで置いてください」
「うちでよかったら居てくれていいのよ」
「いえ。前に進みたいんです」
私は元義姉に斑猫の話をした。
「空を見上げた時、フッと兄の姿が浮かんで。まるで兄が道標をしてくれたように思えて。目が覚めたんです。雲間から光が差したみたいに」
私はかつて兄が愛した人に微笑んだ。彼女も微笑みを返した。
私は兄の墓を、元義姉と共に訪れている。
「お兄ちゃんありがとう」
線香の煙が漂う。
「私、新しい生活を始めるね。おね・・茜さん。茜さんも、よかったら、もう兄のことは」
「ううん。再婚とか考えてないの。圭一さんの思い出と二人暮らしがちょうどいい。圭一さんは私にとっても道標なの。悩んだ時に、圭一さんなら何て言うだろうって考えるとね、落ち着くの」
私たちは並んで手を合わせた。
兄の向こうに青い空が広がっていた。
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