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物語不足・不完全なゲーム|コメディアス「段差・インザダーク」を観て

コメディアスの最新作「段差インザダーク」(以下、本作)を配信で視聴した。感想とちょっとした意見を以下に綴る。

配信で観たことについて
もともとは千秋楽を現地で観劇する予定だったのだが、世間の状況を鑑みて配信を視聴することになってしまった。コメディアスは物理現象を楽しむ作風の団体であるという印象だったので歯痒い思いもあった。ただ、繰り返し観ることができるというメリットはあったのでよかった。安いし。
(配信は2000円。仙台から東京まで往復するだけで6000円くらいは平気でかかる・・・)

以下ネタバレを含む。
配信でも観れるのでまだの方はぜひ



物語不足

展開が少なかったので楽しめなかった。退屈だった。ここで言う展開というのは新たなキャラクターやアイテムの登場もしくは離脱が生み出す新たな状況である。

一応どういうことか言っておくと
例えば高校生の鈴木さんと山田さんが教室でクラスの担任の話をしているとする。
この二人の会話が一つの展開である。話題が変わったりしても展開の数は基本的には変わらない。ここでは先生の愚痴を言っていたとしよう。
ここで、二人の友人の今井さんがやってくる。これが新たな展開になる。
今井さんも二人の話に参加する。今井さんは学校の外で先生を見かけたことがあって、家族とデパートに来ていて、優しそうなお父さんであったという。
今井さんは鈴木さんと山田さんの知らない情報を与えることで話が進む。
この後の展開としては例えば①『今井さんが去る』とか②『家族といる先生の写真を今井さんが盗撮していた』とかが考えられる。

① 『今井さんが去る』なら
鈴木「さっきの話本当かな?」
山田「信じられないね」
鈴木「ていうか結婚してたんだ・・・」
みたいな会話ができる。あんま面白くないけど。

 ② 『家族といる先生の写真を今井さんが盗撮していた』なら
鈴木「やば。ダメでしょ」
今井「びっくりしちゃって、とっさに」
山田「え、娘さん超可愛い・・・」
みたいな会話になる。やりようによっては面白くなりそうだ。

① はキャラクターの離脱、②はアイテムの登場である。基本的には登場する方が面白い。キャラクターでもアイテムでも。離脱は、面白さは低いが、それを後からもう一回登場させる機会を得られるから物語全体の面白さを増やすチャンスにはなる。

場面転換のない舞台(特に一幕もの)は基本的にキャラクターやアイテムを出したり引っ込ませたりして物語を展開させていく(他にも「秘密の暴露」とか、「事故の発生」とか色々手法はある)。

さて、こういう視点で本作を見てみると、展開が異常に少ない。
キャラクター・アイテムの登場と離脱は 
0分 考古学者・出資者・村の少年 登場
25分 発掘家・神器(アイテム) 登場
70分 村の青年 登場
75分 伝道師 登場 

である。
全体時間90分に対して4回という驚異的な少なさ。
そして離脱がない。登場時間の配分も偏りが激しい。
何分に一回展開があれば十分かという議論は諸説あるのだけれど、個人的には3〜5分が限界だと思う。人数が多い場合は10分くらいでもなんとかなったりする。
本作は発掘家登場から45分展開がない。明らかに許容範囲を超えている。

(ぜひ、自分の好きな作品の展開の数を数えてみてほしい。20を超えたあたりで数えるのが面倒になってくるだろう。)

もちろん展開の数だけで面白さを議論することは出来ないのだけれど、どうしても間延びした物語になってしまう傾向がある。私が感じた退屈の原因はほぼこれだと思っている。

物語の途中で村の少年と仲違いして少年が離脱するとか、神器が破壊されてしまうとか、村の青年や伝道師の存在を匂わせるとか、やりようはたくさんあったと思うが、それらは一切なかった。

だが、キャラクターの離脱がなかった理由もなんとなくわかるような気がする。後述する。


不完全なゲーム

いやいや、物語うんぬんではないんだ。これは段差を乗り越えるという一種のゲームであって、展開とかはどうでもいい。重いものを持ち上げるというゲームさえ楽しければ成立しているんだ。

という主張もできそうだ。それはそうだと思う。ゲームが面白ければ。
段差を台車で攻略するというゲーム自体が面白いかどうかは一旦置いておいて、ゲームとして不完全に感じてそこも楽しめなかった。

まず、台車を使うことに合理性を感じない。
台車にレガリア()を載せることが出来るならば、段差に上にもレガリア()を載せることが可能なのでは?という疑念が振り払えない。
段差一単位の高さは、地面から台車の載せる面の高さより常に低い。
この時点で、頑張ればレガリア()を持ち上げることが出来るのではないかと、観てる人は思うだろう。少なくとも私はそうだった。
「持ち上げて段差を超えることはできない」という前提が破綻している以上、ゲームとして不完全であった。
色々設定をつけたりすれば持ち上げられないことを説明できるのかもしれない(それが野暮だというのもわかるけど・・・)。
そんなわけで、台車登場時点から茶番だった。

彼らから「レガリアを持ち出したい」というやる気は感じられず、ただ悪ふざけしているだけに見えた。
だから応援もできないし、ゲームとして楽しくない。

せめて台車を使わないで持ち出すことを検討する姿勢が見たかった。
「台車を使わないでレガリア持ち出すことを試みたが、できなかった」という前提があって初めて楽しめるゲームだと思う。

ちょっとの意見

「離脱がなかった理由もなんとなくわかるような気がする。」
まずこれについて。
コメディアスはエチュードを繰り返し、その中で生じた現象や発見をもとに劇作する。
個々の役者がある程度の方向性を持って、アドリブで台詞を生み出していくわけだが、役者の心理として自分の意思で舞台上から退場するという判断はしづらい。だから離脱はエチュードでは生じにくいのだと思う。
つまり、展開を作りたいのであれば、脚本が制御しなくてはいけない。
脚本の段階から「誰それは何分に離脱する」ということを規定しないとうまくいかないのだと思う。離脱する理由はそれこそエチュードで作るので構わない。

さて、この話に通じるのだが、コメディアスはもっと脚本を計画することに時間を割くべきだと思う。もちろん舞台上で実際に生じる物理的な現象や反応は脚本では書ききれないし、そこを頭の中でやろうとすると嘘が生じる。ただ、上で書いたようなキャラクターやアイテムの出入りに関する計画、キャラクターの行動原理に関する検討などエチュードに入る前の準備なしに強度の高い物語を構築することは難しいだろう。

コメディアスは仙台の大学生を中心に創作を行なってきたが、現在はほとんどのメンバーが東京で社会人として勤務しながらの創作を行なっている。舞台に捻出できる時間は減少しているだろう。時間のかかるエチュードでの作劇によって、満足のいく作品が作れない状況があるとすれば、物語の骨格を事前に作り上げることが今後必要になるだろう。

さいごに

散々批判したあとだが、村の青年・伝道師が出てきてからは面白かった。展開が生じたからとも言えるが、絶妙な言葉のチョイスや想像できない展開など、脚本自体に強さを感じた。
その面白さが段差の攻略と本質的に無関係なことはコンセプトとして問題に感じるが、結局人間が面白いと感じるのは役者の感情の動きなのかもしれない。
段差に苦悩する人間。
性格や利害の不一致に困惑する人間。
新たな発見やチャレンジの成功に喜ぶ人間。
その感情を直に共有できるメディアが演劇、なのかもしれない。

社会人になっても創作活動を続ける苦労と労力は想像を絶する。
だが、社会人でありながら創作していることを理由に誉めたくはない。

今後も私はどういう形であれコメディアスを応援したいし、昨今の状況が改善すれば現地で舞台上の人物との感情の共有を楽しみたい。

よろしくお願いします。




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