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まさにデスゲーム|コメディアス「キャッチミー開封ユーキャン」を観て

コメディアスの「キャッチミー開封ユーキャン」(以下、本作)を東京の小劇場 楽園で鑑賞してきたので感想を綴る。超良かったよ。


指も関節も口ほどにモノを言う

上演が始まる前から舞台中央に佇む大きさ1mほど奇妙な箱の中には、デスゲームに参加した若い男2人が箱に閉じ込められている。箱からは腕一本分が出せるだけの穴が用意されている。箱には、数々の仕掛けが施されており、男たちは触覚だけを頼りにそれらを開封していくことで、箱からの脱出を目指す。

この冒頭のあらすじからもわかるように、演者の姿は腕しか見ることができないというのが本作の非常にユニークな点だ。上演時間が90分だとして顔が確認できるようになるまでにおそらく80分以上を費やす。しかし、表情豊かな腕や手を鑑賞できるというのが面白い。
あきらかにイライラしている手、喜んでる腕、驚いている指が見てわかるのだ。

表情豊かな役者は概して良い役者と言われるし、先輩には「客に背を向けるな」と口うるさく言われたりした。それは「人間は顔の表情から、その人物の感情を読み取る」という前提があって、それを何よりも重く考えていたからだろう。

ところで、最近面白い話を聞いた。鳥獣戯画の世界ではウサギやカエルの足先や指の形に感情が表されているという話だ。その時代の人は靴も靴下も履かないから、足の指先にも感情が反映されていると考えるのが一般的だったという説だ。
真偽はともかくとして、この話は人間の感情は表情だけではなく、体の至る部分に宿り得るし、見る側もそこから解釈できるということだろう。目だけではなく、指も関節も口ほどにモノを言うのだ。

加えて、指や腕のあえて誇張された演技も良かった。二人はお互いの手の動きを視認できないから、相手を指差したりする必要は本来ない。しかし、相手を非難したり注意する際に、二人は執拗に指を差し合う。そこらへんのリアリティをあえて無視したケレン味が、表情の見えない舞台に良い彩りを与えていた。

質量を愛でる

本作では身体が箱で覆われることで、明らかに一線を超えた、個性の排除が行われている。しかしながら、目の前に立ちはだかる現象に挑む役者は、与えられた脚本上に描かれる愛や友情を演じる役者よりも、はるかに自由で生き生きとした印象を私たちに与えてくれる。
現象とはリアリティ(現実っぽさ)ではなく、リアル(現実)だからだ。
序盤に手に入れる重要アイテム、ハサミを落とそうものならこの舞台はそこで幕を下ろさざるを得ない。一目惚れしているようにはどうやったって見えないロミオとジュリエットはそのまま悲恋を演じられるが、万有引力によって床に落ちたハサミは決して浮かび上がってこないのだ。
そんな張り詰めた緊張感の上を役者と観客は二人三脚で鉄骨渡りをする。
このゲームがもたらす「デス」とは生物学的な死ではなく、物語の頓挫という終焉だ。

デスゲームへの参加

ところで、どうやらこの哀れな参加者たちは意外に高学歴らしいところが妙に面白い。「僕なんて修士課程まで出たのに」とか「これだけお金があれば、大学どころか博士課程まで進学できる」とか、明らかにインテリ階級であることを匂わせるセリフがあるにも関わらず、経済的には恵まれていない様が描かれている。

メタな話だが、箱の中に閉じ込められている男二人は東北大学工学部材料学科と同大学理学部化学科で、演出も同大学材料学科、この文章を書いている私も同大学材料学科という・・・
「俺たちの人生こんなはずでは・・・」「東京でいったい何をしているんだ」という感慨に耽るほかなかった。
我が母校のマテリアル開発系は一体なにを生み出してしまったのか・・・
同期は鉄を生産したり、ガラスを加工したりしているのに。

作中で登場人物は、金を求めて脱出ゲームに挑戦する。
一方で、クリエイターたちは金にならない脱出演劇を創作する。
どっちが残酷なデスゲームなのか。想像に任せる。

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