傷を愛せるか。9→0の蛹
数日前、ある夢を見た。私は昔から夢をよく覚えている。
一番古い夢の記憶は幼稚園児の夢だ。
今でも、まるで昨日の体験のように覚えている。
幼稚園児の頃の夢の話はさておき、数日前に見たのはスーツケースの夢だ。
私は街の中を一生懸命歩き回っている。目的地に向かって歩いているようなのだが、いつの間にか違うところへ行っている。そうしているうちに、私はスーツケースをどこかに置き忘れたことに気づくのだ。スーツケースを取りに行かなくちゃ。そう思っている自分と、もういいやと思っている自分がいる。その半々の気持ちを抱えながら私はやっぱり歩いている。そんな夢だ。
この夢を見たのは、初めてではない。数ヶ月前にも見た。
夢の中でどこかに置いてきてしまったスーツケースの中身は何だったのか。なぜ、夢の中の私は焦る気持ちともういいやという気持ちなのだろうか。
スーツケースやその中身は何かの象徴なのではないだろうか。
スーツケースの夢から覚めると毎回、こんなことを考える。でも、いまだに答えは見つからない。
この1〜2年、ずっと心に靄がかかっている。
私は何か目標がないとダメなタイプで、これだと決めで全速力で走り続けたいのだ。靄がかかる前がまさにそうだった。
2年ほど私はある目標に向かって爆走していた。
仕事をしながらだったので大変ではあったけれど、
やりたかったことをやる日々は楽しかった。
美しくも幸福な日々だった。
目標を達成した日々の後に待っていたのは、親の老いだった。
この1〜2年の間に、義理の親と実の親の老いと向き合う日々を過ごしている。
仕事をしながら義理の親と自分の親の間を行ったり来たりしている。
自分の老いを受け止める親を受け止めることは、苦ではない。
けれど、夫といる時の自分から、嫁である自分、娘である自分と、
目まぐるしくスイッチすることに疲れているのかもしれない。
親の老いを受け止めるのは意外としんどいが、
実際に会って一緒にご飯を食べて、何気ない話で笑っていると、
そのしんどさは少しずつ和らいでいく。
けれど、自分の暮らしに戻る時、親から自分を引き剥がす痛みに慣れない。
その痛みを感じながら自宅に戻って夫の顔を見ると、ホッとするのだ。
今日、本屋でふと手に取った『傷を愛せるか』(宮地尚子)を買って読んだ。
その中に「人が変化する時、開かれたまま変化する場合と、
閉じた状態で変化することがある。閉じた状態で変化することは、
蛹が蝶になるようなものだ」という話が書いてあった(かなり端折った)。
私はこれを体感したことがある、と思った。
ちょうど10年ほど前のことだ。
私は39歳で不妊治療を開始し、2回の流産を経験した。
自分の人生にこんなに悲しいことが起こるということにびっくりした。
けれど、妊娠がわかった時のあの喜びだけは忘れなかった。
しんどさにのたうち回る中で、これを無駄にするものか、という気持ちが
むくむくと湧き上がってきた。
すぐに落ち込むネガティブな自分を絶対に変えるのだと決めた。
薄い紙を一枚ずつ重ねるようにして、少しずつ私は変わっていったのだと思う。
そしてある日突然、「私、今、蛹から出た!」と思った。
別に、自分が美しい生き物に生まれ変わったなどと言いたいわけではない。
私という人間や私の人生を構成するものは
特に変わっていないのだが確かに自分が変化した、という実感があった。
外から持ってきた部品を入れ替えるような変化というよりも、
自分の中で価値観の組み替えが起こり、それが終了したのだ、と思った。
いわゆる、ミッドライフクライシスを乗り越えたのだと思う。
そういえば、その10年前の29歳から30歳も、私はのたうち回っていた。
西洋占星術でいうところのサターンリターンという言葉にふさわしいほど、
自分の人生に迷い、のたうち回っていた。その過程で出会ったのが夫だった。
あまりにも価値観も生き方も違ったのに、だからこそ、「この人だ」と思った。
自分ではどうにも変えられない自分を変えるには、苦手なことをしようと思った。
私の苦手なこと。それは、人と深く関わり、
互いの価値観をすり合わせる日々を送ることだ。
これまで避けたことをしなければ、自分は変われない気がした。
全然、ロマンチックな結婚理由ではなかったけれど、
あの時のあの予感は間違っていなかった。あの時の私に会ったら言いたい。
「その人だよ。間違いないよ」と。
そういえば、29歳から30歳の蛹の時は、部屋の夢をよく見ていた。
家の中でドアを開き、「こんな部屋があったなんて知らなかった!」という夢だ。夢の中の家は、現実に住んでいる家とは違った。
今思えば、知らない部屋は、まだ見ぬ自分だったのだと思う。
さらに遡ると、19歳から20歳も、大きな変化の中にいた。
その後の人生を変える師や大切な友人に出会い、私の価値観は大きく変わった。
そして、出会って20年目に師との永遠の別れを経験した。
こうして見ると、私はほぼ10年周期で蛹となり、
アイデンティティや価値観の組み替えを経験していることに気づく。
けれど、蛹になっている時は、自分の中の変化には気づきにくい。
蛹の中で何が起こっているかを見ることはできない。
だから、ただただ、変化しているかもしれない自分を抱きしめるしかないのだ。
ある日突然、苦しさが美しい羽根へと組み替えられる可能性を信じて。
私はスーツケースを取り戻せるのだろうか。
それとも、もういらないのだろうか。
いつか、「こういうことだったんだな」とわかると嬉しいな。
でもきっと、その前に振り返るべきことがあることもわかっている。
自分が一番見たくないもの。
「傷を愛せるか」という本を手にしたのは、そのせいだと思う。