Chapter8「運転手の村」
しばらく走って運転手の腕が確かだということがわかると、スリルがむしろ快感になってきた。
しかし、またもや予想外のことが起こった。
車が急にスピードを落としたかと思ったら、完全に停車し、知らないおばさんとその子供らしき2人が僕らのワゴン車に乗り込んできたのである。
「何が起きたんだ?」
田中君は運転手に尋ねたが、彼のセリフはいつも短い。
「No problem」
考えてみれば日本語でいうところのこの「問題ない」というセリフは便利な言葉だ。
都合の悪いことを聞かれたら「No problem」とさえ言っておけばその場は丸く収まる場合が多い。もっとも、インド人がこのセリフをよく使うのは、単に細かいことは気にしないという民族性からなのかもしれないが。
「どうみてもこの人たち運転手の家族だよな」
「つーか、なんで俺らはこの運転手の家族とぎゅうぎゅう詰めになってワゴン車に乗ってるんだ?」
「日本だったらツアーの車を私物化するなんてあり得ないけど、インドだとこれが普通なのかな?」
「隣のおばちゃんにすごい見られてるんだけど」
「ハハハハハ」
「ハハハハハハハハハ」
僕と田中君は笑いが止まらなかった。
たぶん脳がこの状況を処理できなくなってきたのだろう。
しかし、笑ってばかりもいられなくなってきたのである。
突然、運転手がUターンしたかと思うと、先に畑が広がっているだけの道を走り始めたのだ。
本当にこれはジャイプール行きの道なのか?と尋ねても、
「No problem」「No problem」
としか言わない。
さらにしつこく運転手を問い詰めると、どうやらこれから彼の村で結婚式があるらしく、家族を彼の村まで送っていくということらしいことがわかってきた。
「おいおい、俺たちはお金を払ってるのにこんな公私混同していいのかよ。理解できないな」
僕はそれでもこれがインドのペースなんだ、と自分を納得させようとしていた。
村に車が入ると、中に乗っている日本人を珍しがって子供が追いかけてくる。中には石を投げてくるやつもいた。
「なんだ、この村は」
田中君はあまりに原始的な村に言葉を失っていた。
その村の貧しさは、デリーから来た僕たちにとってあまりにショックが大きかった。
道というようなものはなく、ところどころある家は藁葺きや粘土みたいなもので固めた壁で出来ていて、いたるところに汚物やガラスの破片が落ちている。子供たちの服装はボロボロで、みんな裸足だ。
運転手にここはどこだ?と聞くと「デリーだ」と言う。
1時間は走ったと思ったが、おそらくデリー郊外の村なのだろう。
運転手はこの村からデリー中心部に出稼ぎにきていて、おそらくこの村で一番裕福な家なのだろう。車もこの村にはこの白いワゴン車一台しかないらしい。
僕は改めてインドの貧しさを実感した。
おそらくこういった村はインドの各地に存在するのだろう。観光客が見る発展著しいデリーや華麗なタージ・マハルはインドの一部に過ぎない。
ワゴン車は村の奥まった所にある道端で停車し、僕らはバックパックをワゴンに残したまま、運転手のいとこの家に招かれることになった。この時はまさかこんな村で2時間も待たされるとは思いもよらなかったのだ。
家に入ると、どこからともなく5~6人くらいの人が集まりはじめ、僕らはじろじろと観察された。運転手によるとそのうちの一人は医者らしい。
「この状況はちょっとまずくないか?」
1時間経っても一向に出発しようとしない雰囲気に僕と田中君は焦りはじめた。
「はやく出発しろ!」
「何時になったら出発できるんだ?」
「こっちはお金を払っているんだ!」
しかし、インド到着初日に客引きに連れて行かれた事務所とは違い、ここはデリー中心部ではない。
リキシャーもないし、タクシーもない。
第一、ここがどこだかわからないのでジャイプールまではこの運転手の車で行くしかないのだ。
僕は荷物をワゴンに入れっぱなしにしてきたことを激しく後悔した。あの荷物がなくなってしまえばこの先旅行を続けていくことは難しくなる。
そうして不安と焦りと戦いながら時間を過ごしているうちに、いとこの奥さんらしき人がトレイにチャイととチーズらしきものを乗せて運んできてくれた。
チャイというのは熱々のミルクティーに砂糖と少量のショウガ汁が入った、インドではとてもポピュラーな飲み物だ。
しかし僕はこの好意を素直に喜ぶことができなかった。
『地球の歩き方』に、インド人宅に招かれ食事や飲み物をおごられても決して口にしないように、と注意書きがされてあったことを思い出したのだ。
体調を崩したらグルになった病院に連れて行き治療費を保険会社に請求する詐欺が多く、最近は、身ぐるみ全部剥がされて捨てられる人や命に関わるような重症に陥る人もいるらしい。
しかし、わかってはいても、現実にはその場の「空気」というものがある。
「お腹がいっぱいだから」と嘘をついて口にするのをためらっている僕らを不信な目で見ながら、その場にいる男たちはチーズにかぶりつきチャイをうまそうに飲んでいる。そしてしきりに「食え食え」と勧めてくる。
僕はこう思った。
「僕と田中君のコップにだけ毒を入れることなんて難しいんじゃないか」
「一口も口にしないのはさすがに失礼だ」
しかし、これは考えが甘かった。
僕はおそるおそるチーズの端っこをひとかじりしてみた。その途端、舌がしびれ意識が朦朧としてきたのだ。
目の前の風景がグラグラしている。
「やばい、これやばい」
僕は意識を失わないように必死で自分を叱咤した。
「おまえ、絶対食うなよ」
僕は小声で隣の田中君に耳打ちした。田中君まで意識を失ったらもう終わりだ。
もちろんそれ以上は断って、運転手に一刻も早くジャイプールに向かうように要求したところ、19時に出発することを約束してくれた。
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