【うらがみむらかみ往復書簡】18通目 | うらがみ
むらかみさんへ
こんにちは。お手紙ありがとうございます。
すっかり寒くなりました。すっからかんの茶色い木々があると思えば、まだまだ色づく葉もあるけれど、どれもこれも心なしか寂しげに見えます。落ち着いた景色に心も鎮まるからでしょうか、わたしも冬の散歩が好きです。
百瀬文さんの『なめらかな人』について。
読んでから少し経って読後の生の感触を忘れてしまったので、ノートに書き留めたものやなんとなく覚えている感覚をよすがに書きますね。
わたしは、とにかく「文章のおもしろさ」に夢中になりました。”おもしろさ”は内容に起因するものか、文体か、今となっては(読んでいるときも?)よくわからないけれど、駆け抜けるように読み進めて「ああ、終わっちゃった…。もう一周したい」となる、ジェットコースターみたいな感覚です。
共感したとか自分と近しいとかではなく、むしろ百瀬さんとわたしは圧倒的に違います。年齢、生活、職業、家庭、考え方、などなど。読んでいて、わたしもある種の居心地悪さを感じていたと思います。
特に違うと感じたのは、百瀬さんの「自分」を囲う柵の低さでした。周囲の人々との活発な交流や、エッセイや作品で開示する範囲の広さ。本文にあった“自分の体を自分で所有している感覚はない”ことも関係しているのかもしれません。「自分」を分厚く高く壁で覆ってしまうわたしが経験しないであろう景色を見られて、おもしろかったです。また、制作する作品に自身の人生や生活が直接的にあらわれることへの憧れを感じもしました。
百瀬さんと親しくできるか、という感覚は面白いですね。書き手を身近に感じられるエッセイならではの味わい方でしょうか。百瀬さんとわたしは、日常的につるむ間柄にはならない気がします。きっとお互いに異質です。でも話せばなんとなく話が弾むような、そんな感じかもしれません。
普段自分を「みずみずしい」と思うことはないけれど、まだまだ初めて出会う感情にのたうち回っていたり、処理しきれないものが渦巻いていたり、泥の中でぬるぬるびしゃびしゃもがくみたいに思えたりするから、「みずみずしい」のかもしれません。昔は、20代半ばなんて身も心もすっかり大人だろうと思っていました。でも実際は、子供の頃から地続きで、根本はあまり変わっていないように思えます。この後も年齢の数字だけが大きくなっていくのかもしれませんね。そして、テレビの中で見る同い年も、年下も、自分よりずっと大人に見えます。
職場など顔の見える付き合いだと、同調がコミュニケーションになっている部分もありますよね。
他者の非を一方的に決めつける人が、文句のある相手に直接攻撃をする、となると話は違ってくるけれど、たとえば「第三者に愚痴を言う」なら、愚痴を聞いた側は同調しがちな気がします。たとえ同僚の愚痴に賛同できなくても、その同僚との関係性を優先するのです。というか、話し手が聞き手の同調を前提に話すこともあるかもしれません。
状況にもよるとは思いますが、愚痴をこぼす人は意見交換をしたいわけではないのだと思うんです。と言うのも、子供の頃「授業だるいね」と友達が言い、私はだるくないな…と思うとき、どう返したら良いかわからないことがありました。具体的には覚えていませんが、初めは「私は別にだるくないよ」みたいな返しをしていました。でもそれを受けた友達の反応を見て、たぶんここ「私はだるくないよ」って主張する場面じゃないな、といつからか気がついたんです。友達はなんとなく文句をこぼしたいだけなのだろうし、友達の言い方には「うらがみもだるいと感じているはずだ」が含まれてもいるのだろう、と思いました。
最近のわたしは「まあ人それぞれ事情はある」という見方をしがちだし、大人になってからも愚痴には大体同意できないので、今も反応に困ります。愚痴を言う人に「その人にも事情があるんじゃないですか?」とは返しづらい。しかもそれはそれで単なるわたしの意見だし、相手の見方や感じ方自体を否定する権利はないと思うのです。度が過ぎた内容なら反論すべきかもしれないけれど、人を前にして異を唱えることは、相手との関係性がある上では、そう簡単ではないこともあると感じます。
きっと愚痴を言う人も、相手に面と向かって言う気はないことが多いと思います。だからこそ相手が目の前にいないネットでは他者への攻撃が苛烈になるのかもしれないですね。
「書くこと」「描くこと」の違いについて、文章はどうしても具体的になってしまう、そんなところも大きいのでしょうか。言葉で表すことの自由さと不自由さを両方感じます。コンプレックスは厄介ですよね。周りから見たらなんてことないのに、自分でストッパーをかけてしまったり厳しく評価しすぎてしまうことって、あると思います。
オリジナルグッズの販売、素敵ですね!おめでとうございます。そしてカフェでの展示も素敵です。絵をじっくり見た人の心や視点を何かしら動かしているのではないかと思いますし、絵を目的としていない人の視界にも映って、その人も気がつかない場所で作用を与えているかもしれません。
何かを創作することは、結局本人がやりたいかどうかで、本人が「これが私の成果物です」と出せば、それが全てだし、それで十分。そしてその行為は非常に尊いことである、と最近思います。
息子さんが生まれてからの日記。自分の日記。記録することで、忘れたくない日々も動いていく時間も、ほんの少しとどめておくことができる。書くあいだもきっと良い時間を過ごされているのだと思いますし、後々振り返る時間もきっと楽しくなりますね。
今を生きる人の考え方について、ちょうど、永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』を読んだところでした。『世界の適切な保存』は今図書館で予約中でして、順番が巡ってきたら読もうと思います。
『水中の哲学者たち』は、永井さんが学校や他の場所で哲学対話をしたときのエピソード、日頃の友人とのやりとり、昔の思い出等を題材に、日常の身近な疑問から哲学の話題へと引き込まれるような、おもしろい本でした。
そして印象的だったのは本文の中で何度も登場したように思う、「他者とわかりあうこと」についてです。
「わかりあう」ことについては、個人的に日々反省だらけです。
たとえば友人と話していて、「わかる!」と言うことがあります。「わかる」と感じられる瞬間はとても嬉しい、でもそれは、自分の文脈で相手を捉えているだけではないか、と反省します。たぶん「わかる」の中身を相手と細かく突き合わせていけば違うところも多々あるはずで、違う現象がたまたま同じ言葉で表されていただけのことも多いだろう、と思うんです。本来異質なものを「わかる」の三文字・三音で同質としてまとめることの違和感と、自分がついそれをやってしまうこと、そのうまくいかなさに頭を抱えます。
わたしはわたしで、会話相手に「わかる!」と発言を拾われ「私もさぁ、」と相手の口から続く言葉がわたしのそれとはまったく違うとき、訂正する気も起きず、そのまま流してしまうこともあります。
自分と他者との齟齬に常に対面すること、他者は他者なのだと感じることはひりひりと苦しくもあります。でも、他者は他者だと捉えられるようになったことは成長、大人になった部分かもしれません。話し合いは論破の場だ、と思っていた子供だったんです…。
どんなに言葉を尽くしてもわたしについて相手が理解できないこと、わたしが相手を理解できないこともある。それを寂しくも思うし、元からそうだったよなとも思うし、それでも諦めないで、声を届けあってみることが人付き合いなのだと、最近は思います。届かなかったり、自分の意図とは違う意味で捉えられたりを承知の上で、届けてみること。
全然そちらのことわからないのでわたしのこともわからなくて大丈夫です!とシャッターをおろしかけ、でも、自分とは全く違う他者を知ると、すっごく面白い。似た部分があると感じると、嬉しい。
それは、他者は他者だと思っているからなのか、「わかりあえるんじゃないか」とどこか期待しているからなのか、どちらなのでしょうね?
2024年最後のお返事は、他者をめぐってぐるぐる歩き回るような文章になりました。
この往復書簡も気がつけば半年を越えました。はじめた頃は年末まで続いているとも続いていないとも想像がついていなかったので、嬉しい驚きです。いつもありがとうございます。来年もぜひよろしくお願いします。
わたしも年末年始は家族とすごします。何年ぶりかの友人たちにも会う予定で、わくわく半分、不安半分です。
それでは、良いお年をお迎えください!