おばあちゃんが死んだ
今日、おばあちゃんが死にました。死因は老衰。101歳で随分長生きしていました。
コロナの問題とかで、あんまり人が集まらない方が良いから、お父さんと、お父さんのおねぇちゃん(私のおばさん)の2人だけで、火葬するらしい。お葬式は、しないんだって。
私、正直、全然悲しくない。おばあちゃんがずっと嫌いだったから。
私はおばあちゃんの事、記憶のある時から知っているけど、悲しくない。
だって、ずっと小さい時から私のお母さんの悪口言ってたんだもん。私はお母さんが大好きだったから。そんなもん、嫌いだよね。
そして、『おばあちゃんが死んで泣いた人、悲しい人、いないんじゃないかな?』って思う。
同じマンションの6階に、わたしたち家族は住んでいて、おばあちゃんとおじいちゃんは同じマンションの13階に住んでいた。
おじいちゃんは15年前に亡くなったけど、私はその時も悲しくなかったなぁ。好きじゃなかったからなぁ。
『血が繋がっているとか関係ないんだな』ってつくづく思う。
もちろん、他人でも、私が好きな人だったら、私はその人が死んだら泣くんだろう。
ただ、幸いに知人で近しい人で、私は死なれた経験が30歳にして、まだないのです。
でも最近、コロナの関係で、「死」についてよく、考えるようになった。
「死」って、ただの事実だなって。
私が死んでも、っていうか誰が死んでも、普通に世界は続くじゃないですか。良い事しても、悪い事しても、何か成し遂げても、何も成し遂げなくても。
生きている意味とか、30歳になった今でもよく考える。
〝死にたい〟とか思う時も、生きてれば私はたくさんあるけど、結局は生きていたいって思うよね。
だって、死ぬのって、
絶対痛いし苦しいじゃん。
それだけでも、生きたいって思う十分な理由だよね。
コロナが、私に教えてくれた事はたくさんあるな。マジでコロナうざい死ねお前のせいで失業したわ、なんだけど。
コロナ問題で、
『実は私、めっちゃ死ぬの怖い』
って気づいた。あと、大事な人がより具体化されたよね。
おばあちゃんが死んだ事で、思った。
『私が死んだ時、悲しんでくれる人がいたら良いな。そんな生き方がしたいな』
って。
そんなおばあちゃんの、今日は命日でした。
うらふー