『なめらかな世界と、その敵』の感想と解説(ネタバレなし)
発売前にして既に重版決定、いま最も注目されているSF作家と言っても過言ではない、幻のSF作家。それが伴名練さんです。今回はその伴名練さんのはじめてのSF作品集『なめらかな世界と、その敵』の紹介と感想、そして解説を行っていきたいと思います。
ここまで読んで不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。はじめてのSF作品集なのに、なぜそんなに話題になっているのだろう、と。その疑問を解決するために、まず簡単に作者である伴名練さんの紹介から行っていきます。
先ほども申し上げました通り、本作『なめらかな世界と、その敵』は、伴名練さんのはじめてのSF作品集です。もともと伴名練さんは知る人ぞ知る幻のSF作家で、しかも作品のほとんどが同人誌に掲載されるため入手が難しいことでも知られています。しかしながら、その作品の完成度の高さから、年に一度発表される新作を手に入れるだけことを目当てに、わざわざ地方からSFイベントや同人誌頒布会に出向いて作品の掲載された同人誌を入手する人がいるほどです(東北大SF研にも、去年11月に同人誌を手に入れようとわざわざ東京まで行った人がいました)。
そんな幻の作家のSF作品集が、ずっとSF界隈でSFの外に打って出るべき作家と言われていた作家のSF作品集が、ついに10年目にしてはじめて出たのです。これを喜ばずして、そして応援せずして、それでもSFファンと名乗れるでしょうか。(いや、ない。)(早口)(オタク)
そんな感じで、伴名練さんのSF作品集が、商業出版という形で濃厚なSFファン以外も簡単に手に入れられる形で世に出たということが、SFファンとしてはものすごく嬉しいのです。なんせ、伴名練さんは、天才ひしめくSF界でもぶっちぎりの天才なのですから。読めばそれがわかるはずです。そしてひとりでも多くの人に、伴名練さんというとてつもない天才の作品を読んでほしいからこそ、私はこの文章を書いています。
2010年代、世界で最もSFを愛した作家という評は、伊達ではありません。SFを知り尽くした、誰よりもSFに詳しい作家の超絶技巧に酔いしれてください。後悔はさせません。
ということで、本題の感想と解説に移っていきたいと思います。
一番最初に収録されている作品が、表題作「なめらかな世界と、その敵」です。この作品は、無数に分岐する並行世界を自在に行き来し、知覚することのできる感覚”乗覚”が存在する世界を舞台とする青春SFです。SFとしての分類では、並行世界もの・多元世界ものと呼ばれるジャンルの作品となります。
この作品は、『なめらかな世界と、その敵』という作品集の最初を飾る作品として、”伴名練”という書き手の超絶技巧をこれでもかと発揮した作品となっています。それが最もよく表れているのが、物語の冒頭部。語り手の一人称視点を通じて、互いに矛盾するべき世界が無矛盾に、シームレスに切り替わっていく光景が描かれます。これにはSFを読みなれていない方は戸惑ってしまうかもしれませんが、とにかくすごいことが起こっているということは感じられるはずです。
この”すごさ”について、詳しく説明します。これがなぜすごいのか、それはこの冒頭部分が非常に視覚的な文章であるにもかかわらず、視覚化不能であるからです。一文のうちに視覚的に矛盾する状況を鮮やかに織り込み、その一文だけで世界観の説明をスマートに済ませてしまう。この「なめらかな世界と、その敵」は、SFのネックである作品を読みはじめたときの状況把握のしにくさを超絶技巧をもって華麗に解決した作品なのです。
伴名練さんは、”視覚的な作家”と言われることがありますが、単に視覚的であるだけにとどまりません。視覚的な技法を知り尽くし、それゆえ視覚化不能な状況を視覚的に描き出すことさえできてしまうのです。その上に上質で丁寧な青春要素が加わってしまったら、これはもう面白くならないはずがないのです。
この作品のオマージュ元としては、冒頭のエピグラフとして引用されているR・A・ラファティ「町かどの穴」が挙げられます。この作品は並行世界ものの名作ですので、このジャンルの作品に興味のある方には同作が収録された短篇集『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫SF、絶版)を読むことをおすすめします。
また、この作品が面白かった、という方には、ぜひ円城塔さんの「リスを実装する」(河出文庫『シャッフル航法』収録)という作品に挑戦していただきたいな、と思います。私がおすすめする理由は、読んでいくうち次第にわかっていくはずです。
この本の収録作は、全体的にSF批評的です。SFという手法を知り尽くした作家が書くのですから自然そうなるのは納得がいきますが、その批評的な姿勢が明らかに見て取れるのが、「ゼロ年代の臨界点」です。
もしかすると、”ゼロ年代”という言葉に馴染みのない方がいらっしゃるかもしれません。この言葉は、西暦2000年代を指す言葉であり、良くも悪くも、詳しく話せばそれだけで1冊の本になるほど多面的な意味をもっています。ともかく、ここでは、なんとなく00年代を指す言葉として使われてるんだな、批評的な文脈でよく使われるんだな、ということを抑えていただければ結構です。
作品の解説に戻ります。この作品は、1900年代の”もうひとつのゼロ年代”という架空の歴史を舞台とした批評形式の小説です。1902年の女学校でのある出来事から話をはじめるこの作品は、中在家富江・宮前フジ・小平おとらの3人を中軸とする”日本SF第一世代”と、日本SF黎明期に関するエピソードの真贋をはっきりさせる目的で書かれたように読み取れます。架空の歴史を紐解くように読み進めていくのも面白いのですが、私が読んでいて面白かったのは、この架空の歴史がまったくの架空のようでいてそうではないということでした。日本のSF黎明期の三人組の作家の存在は、現実の歴史における日本SF御三家の3人(星新一、小松左京、筒井康隆)に重なるものがあり、またその3人の仲が必ずしもいいものではないということは海外SF御三家(アシモフ、クラーク、ハインライン)を想起させます。
さらに、この作品は日本SFがもし1900年代に、しかも女性の手によってつくりあげられたものだったら、という仮定のもとでのSFであるとも読めます。現実の歴史の中では、ヴェルヌやウェルズ、ガーンズバックやキャンベル、海外SF御三家にブラッドベリ、ブラウンと、SFの黎明期や初期にかけての作家はそのほとんどが男性ばかりであり、女性はメアリ・シェリーなどごく少数を数えるにすぎません。そのような現実を知った上で虚構の”ゼロ年代”を読んでいくと、私たちの読めたかもしれない幻の作品の影が物語の向こうにうっすらと立ち上がってくるのです。そして、そのありえたかもしれない世界を作ることができるのはこれを読んでいる私たちであるということも、分かってくるのです。
この作品で言及されている作品を読むことが叶わないからこそ、いま読める作品を後世に、さらにいま読めなくなっている作品をなんとか読めるように努力しなければならないということもまた、この作品からは伝わってきます。この点でも、先の「あとがきにかえて」に共通するような、伴名練さんの当代随一のSF好きという面がよく現れた作品です。
「美亜羽へ贈る拳銃」はもともと京都大学SF研究会の同人誌『伊藤計劃トリビュート』に掲載された作品です。誌名からもわかるとおり、本作は伊藤計劃さんに捧げられたオマージュであり、特に「ハーモニー」に焦点をあてて書かれた作品です。
本作の解説を行う上で、伊藤計劃さんの「虐殺器官」「ハーモニー」のラストに仕込まれた嘘を避けては通れません。もし、これら2作の嘘に気付いていないなら、まずそれらの嘘について考えていただきたいな、と思います。「美亜羽へ贈る拳銃」は、これらの嘘に対して取り組んだ作品であり、前提として考えなければ的を外した議論になってしまうのです。
さて、解説に戻って、本作は、非常に手の込んだ、SFの知識がちりばめられた複雑な作品になっています。例えば、本編81~82頁で言及されている、過去のディストピア作品を収録した”聖書”に収録されている作品としては、順に伊藤計劃「ハーモニー」、グレッグ・イーガン「真心」が挙げられています。また、117頁16行目から言及のある作品は、順番にテッド・チャン「顔の美醜について――ドキュメンタリー」、伊藤計劃「The Indifference Engine」、グレッグ・イーガン「しあわせの理由」です。これもまた、SFを愛する伴名練さんの圧倒的な読書量の成せるところのものであり、SFの先行作品の研究では他の追随を許さないものです。
先行作品の研究は、もちろんオマージュ元である伊藤計劃作品に対しても徹底されています。読んだ方はお気づきかと思いますが、この作品では作品全体の文体と物語の展開の仕方、語り方もしっかりと伊藤計劃作品に寄せていったものになっています。クライマックスからラストにかけての展開はまさに、というべきものである一方で、ただ単にトレースするだけでなく、元となる伊藤計劃的な文体から削られている伊藤計劃的な要素も存在します。
その好例となるのが、会話文中の疑問文です。特に「ハーモニー」に顕著にみられる、”?”をつかわずに”......”をつかっている疑問文が、これにあたります。この表現はウィリアム・ギブスンの会話文を黒丸尚さんが訳した文章がもとであり、「ハーモニー」や「虐殺器官」の翻訳調の文体を構成する重要な要素になっています。この重要な要素が「美亜羽へ贈る拳銃」では削除されているわけなのですが、ここになんらかの意図があるものだと考えられます。私は私なりにひとつの考えに行きついてはいるのですが、これに関しては伊藤計劃作品と「美亜羽へ贈る拳銃」を読み比べて実際に考えていただきたいな、と考えています。一から十まで解説してしまっては読む楽しみを削いでしまいますし、読み比べるべき作品群はどれをとっても名作ばかり。SFを読む上での大きな楽しみである、読み比べる楽しさを実際に体験していただければ、と思います。
この作品は伊藤計劃さんへのオマージュだけでなく、ほかのSF作家たちへのオマージュも見られます。先に挙げた作品群はもちろん、「なめらかな世界と、その敵」と同様にR・A・ラファティへのオマージュが存在します。どうもクライマックスのシーンでラファティの「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」のパロディがあるらしいのですが、少なくとも私はまったく気付きませんでしたし、ほかの方もどうやら気付いていなかったようです。(なので気付かなくてもまったく問題ありません)
本作にはこの作品集に収録されている改稿版のほかに、同人誌『伊藤計劃トリビュート』に収録されている同人版も存在します。登場人物の名前が変わっていたり、細部の記述が違っていたり、さらには結末が違うものであったりと、読み比べると新たな仕掛けや、それまで気づかなかったような細部に気付くことになるかと思います。この作品が気に入ったならば、ぜひぜひ比較してみることをおすすめします。
タイトルの元ネタは梶尾真治さんの時間SFの名作「美亜へ贈る真珠」。詳しくは該当作で述べますが、ほかの作品のアイデアの元にもなった作品です。
この作品集に収録されている作品の中で、もっとも百合らしい百合を見せてくれるのが「ホーリーアイアンメイデン」。
この作品で最も特徴的なのが、お嬢様言葉の書簡体小説であるということ。視覚的で美しい文章を得意としていらっしゃる伴名練さんがお嬢様言葉をおつかいになれば、美しくなるのは自明の理というものですわ。ここまでの作品を読んできた方ならば、一作ごとに文体が目まぐるしく変わっていったことに気付いたはずです。伴名練さんは、作品のために最も効果的な文体を自由に選んで書くことの出来る、ちょっと想像がつかないほど達者な作家なのです。ゼロ年代ライトノベル風の「なめらかな世界と、その敵」、抑制された批評形式の「ゼロ年代の臨界点」、伊藤計劃的翻訳調の「美亜羽へ贈る拳銃」、女学生の言葉遣いがそのままに息づく「ホーリーアイアンメイデン」と、各作品を互いに独立に読んだとしたら、果たしてどれだけの人がこれらの作品の作者が同一人物であると気づけるでしょうか。私は気付ける自信がありません。
そんな超絶技巧をもつ作家が描き出すのは、ある姉妹の書簡。地の文を含まない書簡体小説によって、文章の一言一句にまで通う情感が書簡の受け手に直接響いてくるのです。書簡の受け手とは、この書簡を読んでいる読み手、すなわち読んでいる私たちにほかなりません。この小説において、読み手はただの百合の傍観者ではなく、百合の当事者としての役割をもちます。そう、この作品は読み手のための物語なのです。
本作には、この本に収められている改稿版のほかに、同人誌『稀刊 奇想マガジン』創刊準備号に掲載された際の同人版も存在しているので、この作品が好きな方にはぜひ読み比べることをおすすめします。
この作品を読んで面白かったと感じた方には、同じく伴名練さんの百合SF「彼岸花」(『アステリズムに花束を』収録)をおすすめします。
同人誌掲載時からSF界隈で大きな話題となっていた作品が歴史改変百合SFの「シンギュラリティ・ソヴィエト」です。
この作品を読んだときにいちばん衝撃的だったこと、そして一番印象に残ったもの、それが自分の知っている現実の歴史が虚構によって塗り替えられていくことへの衝撃と不安、そして心の底からの興奮でした。
東西冷戦期に両陣営の威信と科学的・戦略的優越性をかけて争われた宇宙開発。人工衛星の打ち上げ(スプートニク)・有人宇宙飛行(ガガーリン)・宇宙遊泳(レオーノフ)のすべてでソ連に先を越されたアメリカに残されたフロンティア、それが他の天体に人間を送り込むこと、すなわち月に人間を送り込むことでした。予算不足によって有人月面探査を断念したソ連に対して、アメリカはもはや競う相手のいない虚しい競争を続け、莫大な予算と尊い人命を費やし、ついに1969年のアポロ11号によって、アメリカは最後の最後で偉大な勝利を収めたのです――ここまでが現実の歴史。
「シンギュラリティ・ソヴィエト」において、アポロ11号の"英雄"ニール・アームストロングとバズ・オルドリン、そしてその偉業を生中継で見守っていた全人類が見たものは、月面に立った星条旗が一瞬にして金槌と鎌の赤旗に変わった光景でした。ソ連は既に技術特異点を突破し、アメリカに先んじて月面に到達していたのです。それはすなわち、合衆国の、ひいては資本主義体制の完全なる敗北を意味していたのでした。さらにいえば、それは私たちの知る現実の歴史の敗北をも意味しているのです。
この作品が巧妙なのは、歴史改変SFにおける常套手段である”入れ子構造の物語”をしっかりと踏襲した上で、現実と虚構とが対立し、互いを侵食しあう構図を設定しているところです。これら”歴史改変SF”、”入れ子構造の物語”から想起されるのが、歴史改変SFの名作であるフィリップ・K・ディックの「高い城の男」と、ディック作品の特徴である”崩壊する現実に対しての不安感”です。月面探査に象徴される私の知っている現実の歴史が虚構によって覆されていき、ある要素の導入によって現実をも疑い揺さぶりをかけてくるのが、本作なのです。
この”月に人間を送る”ということに、私はひとつのモチーフを見出しました。それはSFそのものです。宇宙に憧れ、宇宙を目指した科学者たち、ソ連のコンスタンチン・ツィオルコフスキー、アメリカのロバート・ゴダード、そしてドイツのヘルマン・オーベルトをその夢に駆り立てたのは、SFの父ジュール・ヴェルヌのSF小説「月世界へ行く」でした。そして彼らの宇宙への思いを継いだソ連のセルゲイ・コロリョフとドイツ(のちアメリカ)のヴェルナー・フォン・ブラウンらの熾烈な宇宙開発競争の末、アポロ11号の月面着陸によって、SFに新しい時代が到達しました。それは、SFが実現するようになった時代であり、現実がSFに追いついたとされる時代でした。SFによって駆動した現実が、ついにはSFを否定する方向へ至った皮肉な歴史なのですが、本作はそんな有人月面探査のさらに象徴的なイベントを改変することによって、現実の歴史に、そして現実のSFに対して揺さぶりをかけたのです。
歴史改変SFの入れ子性という由緒正しいSF的手法をもって宇宙開発競争というSFと地続きの現実を改変し、従来の歴史改変SFにはないあるアイデアをもって現実に対する疑念へと読者を誘導していく。この巧妙で緻密な構造から、この作品がSFという手法を知り尽くした作者による非常に批評的な作品であるということが容易に読み取れます。
この”SF”という直接的なモチーフのほかにも、この作品にはたくさんのモチーフが使われています。確かに”党員現実”、”書記長現実”、”警備用レーニン”といったパワーワードや、伴名練さんといえばの百合要素も魅力的なのですが、私はシンギュラリティというメインガジェットとそれが象徴するモチーフのかずかずにも強く惹かれてしまいます。
目立つところでは、作中におけるソ連のシンギュラリティ到達を可能にした計算機科学者アラン・チューリングという要素が挙げられます。現実の歴史では同性愛を理由にイギリスで迫害されたチューリングが、同じく現実の歴史では同性愛者を迫害したソ連で活躍したことは、このことを知る読者への揺さぶりとして機能し、さらに作中におけるソ連の体制が現実とは少し異なることを示唆しているうえ、最終的にはそれが百合へと繋がってくるのですから、もう巧みとしかいえません。
さらにソ連(ロシア)の史実に絡んだ人工知能のエピソードして挿入されているのが、人工知能の人類に対する超越を象徴する出来事、ソフトウェアがチェスで人間に勝利するという出来事でした。現実の世界では、1997年にIBMの作成したディープ・ブルーが、当時のチェス世界チャンピオンであるロシアのガルリ・カスパロフに勝利しています。この歴史的事実を改変された作中の世界にも導入し、それをもってさらに虚構と現実との境をあいまいにしていくのが、本当に上手です。
くわえていえば、科学と理性をもって神を排除し、平等な社会を目指していたはずのソ連が、科学と理性をもって人間が作り上げた人工知能という名の神的存在の完成によってそれを実現させたという構図が、さらにこの世界の虚構性と矛盾性を強調しています。アメリカの人工知能リンカーンの見出した打開策も含めて、虚構と現実との境をあいまいにさせてしまう恐るべき作品です。
私の知る現実と、この作品の中の現実と、果たしてどちらが本当なのか、読んだ時の衝撃と不安、そしてそこから開かれるヴィジョンへの興奮、これらはいまでも冷めやらぬままです。あまりにも完成度が高すぎて、本当にこれらをすべて狙ってやっていたのだとしたら、それこそ気が遠くなってしまうほどに完成度が高い......。本作は、この本に収録された作品の中で、随一のSF的ヴィジョンをもった作品だと思います。この文章の長さと異様な詳しさで既に察していらっしゃるかと思いますが、私はこの作品が伴名練さんの作品の中で一番好きです。
この作品を気に入った方には、歴史改変SFとしてはフィリップ・K・ディック「高い城の男」とキース・ロバーツ「パヴァーヌ」を、そしてほかのサブジャンルの作品として神林長平『戦闘妖精・雪風<改>』を読むことをおすすめします。
最後に収録されている本書への書き下ろし作品が「ひかりより速く、ゆるやかに」です。本作は、伴名練さん本人が”瞬間風速を目指して書いたもの”と語っている通り、まだ読んでいないならばなるべく早く読んでいただきたい作品です。
この作品は、新幹線を襲った謎の”低速化災害”という未曽有の出来事を題材とした作品です。あらすじなどはほかの方に譲るとして、私がどうしても語っておきたいことがあります。それは、本作の主人公、伏暮速希の性別が作中で特に指定されていないということです。このことによって、この作品は正統派青春時間SFとしても、僕っ子三つ巴百合時間SFとしても読むことが可能になります。百合で知られた伴名練さんが百合でないものを書いたのなら、真っ先に主人公の性別を疑ってしかるべきなのですが、私も再読するまで気づいていませんでした。これをいたって自然に物語の中に導入できるところが、ほんとうにすごいですよね。この点も含めて、この作品は現時点での伴名練さんの最新作ということもあって、これまでの作品に見られた特徴や取り組みの集大成といった趣のある作品です。
この作品で特徴的なのは、互いに独立する複数のテクストを並行してもちいることで多面的に物語を描いていることでしょうか。書簡体小説であった「ホーリーアイアンメイデン」や「彼岸花」とはまた異なる方向性をもって新たな境地を開拓しようと試み、そのうえでばっちり成功しているというのがほんとうにすごいです。
この作品で私が好きなのは、物語中のSF的問題をいかにも古典的なSFらしい、いってみれば非常にSFらしく解決するその手際のよさですね。解決法そのものがすごくスマートで現代的なうえ、過去の名作SFを彷彿とさせる模範的な解き方をするのが、好きです。クライマックスまで何段もステップを用意しておいて、まちにまったクライマックスでも緩急をつけて持続的に楽しませてくれる、これを書ける人はなんて小説がうまいんだろうと、なんてSFというものをよく知っているのだろうと、重ね重ね感じ入ってしまいました。
もちろん登場する人物たちも、ひとりひとりがきちんと描かれていて、互いの思惑や感情が交差しすれ違うさまなど、読んでいて一時も気が離れることがありませんでした。これだけひとりひとりの人物がたっていれば、そして後半のあれだけの盛り上がりがあれば、劇場アニメ化してもものすごくキマると思うのですが、先に示した主人公の性別が不確定であるという問題があるので、なかなか難しいかもしれませんね。このような、いわば”信頼できない語り手”的技法をまさか百合SFの実現のためにつかってしまうのか、というような卓越した技術の執念的用法も読みどころですね。読み手が読みたいように開かれた物語であるということが、非常によく効いてくる作品です。(それにしても、伴名練さんの百合はいい......)(語彙不足)
私としては、この作品のSF的な仕掛けというか、低速化災害に関して物理学的に検討した結果を聞いてみたいな、という欲がすこしあります。あの魅力的なアイデアからさらに得られるヴィジョンがないかどうか、色んな方の意見を聞いてみたいですね。東北大SF研の部会でもその他の場所でもいいので、意見が交わされる場に立ち会いたい......そう考えてしまうのも、この作品から伝わってくる、SFへの愛に感化された結果なのかもしれません。
この作品を読んで面白かったと感じた方には、『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』というアンソロジーを読むことをおすすめします。このアンソロジーに収録されている、ボブ・ショウ「去りにし日々の光」、クリストファー・プリースト「限りなき夏」が刺さるはずです。
また、本作は明らかに過去の時間SFの名作の数々を踏まえた上に物語が展開されており、それらの作品を知ることで、もっとこの作品を楽しむことが出来ると思います。間接的に言及されている作品では、広瀬正「化石の街」(『恐怖の館』)、梶尾真治「美亜に贈る真珠」(『地球はプレイン・ヨーグルト』)、中井紀夫「暴走バス」(『山手線のあやとり娘』)、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「故郷へ歩いた男」(『故郷から10000光年』)、デイヴィッド・I・マッスン「旅人の憩い」(『忘却の惑星』)、小林泰三「海を見る人」(『海を見る人』)、古橋秀之「むかし、爆弾がおちてきて」(『ある日、爆弾がおちてきて』)、片瀬二郎「00:00:00:01pm」(『サムライ・ポテト』)、大西科学「ふるさとは時遠く」(『拡張幻想』)があり、これらの作品をすべて読むだけでも、十二分にSFファンとしてやっていけるでしょう。私からさらに加えるならば、先ほども言及したボブ・ショウ「去りにし日々の光」は直接的に本作のモチーフになっていますし、似たシチュエーションの作品では筒井康隆「お助け」があり、また発想のもととしてはルーシャス・シェパード「竜のグリオールに絵を描いた男」、R・A・ラファティ「田園の女王」などが挙げられる、といったところでしょうか。私もSFが大好きでたくさん読んでいますが、オマージュ元をすべて探そうとしてもさすがに追っつきませんでした。SFをたくさん読んだ上で、改めてまた読み直してみると新たな発見があると思います。それもまた、SFを読む楽しみのひとつです。
この一冊を通した特徴として挙げられるのは、物語がこちらに牙をむく物語ばかりである、ということでしょうか。この本を読んだら、その牙があなたの心に深く突き刺さっているのに気づくことでしょう。SFを誰よりも愛し、SFを知り尽くした作家の描き出した物語につけられた傷をなにが癒してくれるでしょうか。もはや、それはSF以外にはないのではないでしょうか。