2022年8月10日

 よしもとばななさんの『小さな幸せ46こ』を読んだ。著作権があるので内容には大きく触れないが、日常にある癒しや、身の回りにあって無くなってしまったものから、幸せを見出す機会をくれたエッセイであった。今人生の中で一番激しく、出会いと別れを繰り返している。劇的なものはそうそう無い(言い方はとても失礼だが)が、人生で出会える人数、まして交流をする人数なんて限界があるのだから、どれも意味があって美しくて素敵なものなのだろう。それに気がついて噛み締められる感性を持っていたい。

 僕にはありがたいことに、古くは幼稚園や小学校からの付き合いの友人が何人もいる。今も連絡を取り、地元に戻った時には一緒に飲みに行ったり、朝までボーリングしたり、ただただ喋っていたり。そんな何も生み出さない時間が、ものすごく大切なんだと気がつかせられた。たった二十数年生きただけの僕にも、ちょっとしたことで連絡が取れなくなった人もいれば、上記の友人のように何年もの交流もある人もいる。いつどこでどんなことが原因で出会ったり別れたりするかなんてわからないものだから、尊いものなんだなと思う。美しいものなんだなと思う。「一期一会」って深いななんて、浅いことを思った。

 B’zの『RUN』という歌にこういう歌詞がある。

時の流れは妙におかしなもので
血よりも濃いものを作ることがあるね
(B’z『RUN』より引用)
 
幼い頃から家では、ずっとB’zの曲が流れていた。もちろん歌詞の意味なんてわからないし、ずっと聴いているから覚えているけれど、という曲が多かった。ふと、歌詞カードを見て意味を考えてみた。言葉の持つ意味そのものは読んで字の如しなんだと思う。ただこの歌詞のすごい(と僕が感じた)ところは、聴く人によってそこから得る印象も想像も違うことだ。これは意外にも当たり前のようで難しい。これが稲葉氏の意図したものならば、彼は一体どのような人生をどのような価値観でどう生きてきたのか、ウィキペディアや自伝などで描かれていないところまでも本人から話を聞いてみたいものだ。

 血よりも濃いものなんて僕には一体どういうものなのか頭で考えてもわからない。

 実際、人生で一番長い時間交流してきた友人の、好きな料理嫌いな人苦手なこと得意なことも意外と把握していないものなのだ。幼稚園からの関係で、そんなことなど必要ない時代から知っていたから、最近遊んで新たな発見があって、楽しいと思うことも、こういう人だったんだなといい意味でも悪い意味でも思うことはあった。それでも今も関係は続いているし、これからもきっと続いていくことを願っているし、それでもお互い見ている方向も向かう道も全く違うのだから、いつ疎遠になってしまっても何らおかしくはない。だからこそ、今を噛み締めて、楽しんで、脳みそにも骨の髄にも刻み込んで、そうやって幸せに気がついて知っていって、生きていくんだと思う。

 こういう話になったのは、中学高校と本気で恋をしていた相手と連絡が取れ、久しぶりに東京で会って食事をすることになったことにある。中学3年間同じクラスでよく隣の席になって話をする機会が多くて、気がついたら特別な感情を持っていた。それは相手も知っている(全く気がついていなかったらしく、初めて知ったときは本当に驚いていたし、思わず彼女の親友にも話してしまった程だったらしい。彼女の親友から、これは事実なのかと確認があった。中学生らしい交流の仕方である。ちなみに彼女の親友とは僕はこれがきっかけで初めて会話をした)。

 9年ほど経った今でもお互いの誕生日にはプレゼントを贈り合うし、遠くにいるから会えないが相変わらずLINEで連絡を取ったり、僕の作品を読んでくれている。今まで「性格がいい人」には何人にも出会ったが、彼女ほど素敵な人には出会ったことはないし、彼女ほど好きになった人もいなかった。

 小さい頃は「また明日」は絶対的なものだったし、明日なんて来て当たり前だった。今こうしてある程度生きてきて、それが当たり前ではないこと、有難いことを知って、一つ一つ米粒を噛み締めるように、意識して生きるようになった。そのきっかけをもう一度くれた作品に会えてよかった。

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