#書く術 note 第3回 応募作発表! 直塚大成 『私と北条政子』
1. はじめに ~おっぱいVSお尻~
誰にでも吸えなかったおっぱいのひとつやふたつあるだろう。私にもある。山のようにある。おっぱい自体が山だから、吸えなかったおっぱいで美しい稜線を刻む山脈ができるほどだ。おっぱいマッターホルンの山頂にたどりつき、旗を立て、世にあまねくおっぱいのすべてを見渡したところで、天上から思わぬ声を聞く。
「お尻は?」
なるほど。天におわすわれらが神は尻派らしい。そこで趣向を変えて、尻派の意見に耳を傾けてみる。おっぱい経験すら乏しい私は、まだお尻の良さがわからない。だがこれを読んでいるあなたには触れたかったお尻がたくさんあるのだろう。きっと私の父にも祖父にもあるのだろう。世のオヤジたちが「女の尻に敷かれる」という言葉を勲章のように使うのはきっとそのためだ。あんまり好くない意味の気がしたが。いちおう意味を引いてみる。
ひどい。文字にすると哀愁と破壊力がすごい。なんにもいいことがない慣用句ではないか。念のため「おっぱいに挟む」も探したけれど見つからなかった。その代わり「夫(おっと)は妻の尻に敷かれている → 尻に敷く」という一文があり、私は尻派の華麗なる謀略の前に完全敗北を喫した。監修の東京大学名誉教授尾上兼英教授はおそらく尻派だろう。
となると天下の東大も尻派の手に堕ちたといっても過言ではない。今すぐ叩かねば。しかし発言力も支配力も持たれ、無視され、わがままにふるまわれ、時にはペット以下の存在になりながらも懸命に働く世の男たちをここで失うのも惜しい。だがおっぱい派は気性が荒く数が多いため、煮え切らない態度をとっていると私の立場も危うい。こまった。これではお尻派とおっぱい派の決着がつかないではないか。そこで私は再び、天の声を聞く。
「どっちもいい。だからさっさと北条政子について書け」
なるほど。つまり男はおっぱいを吸いたいし、尻にも敷かれたいのだ。美しい答えが出たところで、天に向かって自己紹介をする。私の名前は直塚大成。九州大学大学院修士1年の22歳だ。ご存じの通り九州大学は九州の福岡県にある。どうしてこの企画に応募したのかは3章の「北条政子とおっぱい」で述べる。
ここまで読んで義務教育の敗北を感じておられるかもしれないが、日本の教育と私の両親に罪はない。いちおう私も外面はFANZAなど見そうもない顔をしている。そんな私が今回なぜ北条政子について筆をとったのか。ああ、そうだった。そんな話をはじめたい。
2. 北条政子について
まずは北条政子の話をしよう。
興味がない人も3章の「北条政子とおっぱい」をより深く読むためには彼女に関する基礎知識が欠かせない。尻派はどうぞ「北条政子とお尻」に読み替えてください。とにかく北条政子その人を知ることが肝心だ。
おうおう、脚フェチも腋フェチも頸フェチもなんでもこい!
今回はみんな味方だ。お互いを異端者だと警察に突き出してはいけない。警察に追っ払われる前にまず目の前の政子に敬意を払え。
閑話休題。どっちが本題なのか今のところ分からないが、みなさまが見たことのある北条政子ちゃんはズバリ、これではなかろうか。どどん。
私もこれを見て育った。
小学校の社会の授業で習った次の日から、クラスの北条君が「まさこ、まさこ」と呼ばれだしたのは私の地元だけではあるまい。決して「ときむね、ときむね」とか「やすとき、やすとき」とは呼ばれない北条くんの苦い顔を思い出しながら原稿を進める。
さて、この教科書で使用された北条政子像はまことに罪深い。なぜなら、政子ちゃんのことを
「白いツルピカハゲ」
という印象に仕立てあげてしまったからだ。彼女はただのハゲた女性ではない。とても魅力的な女性だ。私はまずこの印象を払拭しようとあらゆる文献にあたったが、これ以外の肖像は見当たらなかった。日本肖像大辞典にも載っていない。そこで肖像というわけではないが、江戸時代の「武者鑑」に政子ちゃんの描写をみつけた。
よかった。これで政子ちゃんのイメージアップができる。一緒に見てみよう。
ひどい言われようである。これなら白ハゲの方がましだったかもしれない。髪は生えたが、ハゲを隠したばっかりに品がなくなっている。これはカツラを被る現代社会のオヤジたちへのメッセージだろうか。そんなわけがない。これが描かれた江戸時代は儒教が社会規範の中心であり、その価値観において女性はあまり高く評価されないという社会背景が絵にあらわれているのだ。
——とNHKの『歴史探偵「北条政子」』(2022年6月15日放送)で創価大学文学部教授の坂井孝一先生が仰っていた。私の手柄ではない。NHKはレベルの高い合格点を超える番組をオールウェイズ出してくれる。たった6秒のためだけに吾妻鏡の原本をペラペラめくる。45分番組の1コーナーのためだけに専門家も驚く資料を見つけ出してくる。半端ない。気になった人はNHKオンデマンドからぜひ見てほしい。番組は単品220円。セール時のFANZAより安い。
どうやらビジュアルで政子ちゃんの魅力を伝えるのは難しいようなので、みなさんには本を読んでもらうことにする。
私のおすすめは永井路子『北条政子』、渡辺保『北条政子』、関幸彦『北条政子』だ。他には童門冬二『北条政子』、野村育世『北条政子』などもあるが、だんだん誰の意見も信じられなくなってくるからまずは3冊くらいにとどめておくといい。
手遅れになると脳内で「まさこ、まさこ」という声が聞こえてくる。あの日の北条くんもきっと苦しかっただろう。あのとき隣にいてやれなくてごめんな。
ちなみに北条政子に関する資料を一気に借りたとき、大学図書館の学生バイトの熊谷さんが見せた「なんだこの北条きちがいは……」と言いたげな表情を私は絶対に忘れない。明日から彼女を「じろうなおざね、じろうなおざね」と呼ぶことにする。
ここで勘のいい人はすでに気づいたかもしれないが、私は一次資料を読み込んでいない。最も有名な『吾妻鏡』はもちろん、『愚管抄』も『源平盛衰記』も『承久記』も『大日本史』も『曽我物語』も読んでいない。申し訳ない。ちなみに一次資料に辿り着けなかった理由は、二次資料がめちゃくちゃおもしろかったからだ。
はじめは2日くらいで切り上げるつもりがついつい読み込んでしまった。政子ちゃんの周りで起こる物語はひとつひとつが目を見はるほど美しく、目を伏せたくなるほど醜く、まさに命の輝きに満ちていた。紹介した本やTV特集はもちろん、今まさに放送している大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も目が離せなかった。しかしそれらを差し置いて、群を抜いて面白かったものを紹介する。
TVアニメ『平家物語』。誰もが知る大古典『平家物語』を2021年にアニメ化し、監修に『鎌倉殿』の佐多芳彦教授をつけたガチ歴史アニメーション作品だ。これがもう本当にすばらしかった。なにがすばらしいって、やはり貧乳……ではなく、貧弱な平家が滅亡に至るまでの儚さだ。これから覇権を取る頼朝や政子ら源氏ではなく、滅びゆく平氏のレンズからあの世界を眺めると、結末がわかっていても彼らの死を受け入れるのが難しい。音楽や詩をたしなみ、出会い、飯を食い、恋し、別れ、悼み、子を成し、やがて愛を知る。そして
これは今の私たちと同じだ。
と共感した瞬間斬られて死ぬ。言いようがない哀しさ。源氏も源氏でこのあと身内でめちゃくちゃ殺し合うのを知っているからなお辛い。クライマックスで鳴り響く琵琶の音を聞いて思わず泣いてしまった。おそらく平家だけに向けられたものではない。あれは歴史という大きな装置に乗せられて死ぬしかなかった人々への鎮魂歌だ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。琵琶の音はいまも鳴り響いている。
そういえば、このアニメでもしっかり政子ちゃんは出てきているが、まあ、うん……といった感じである。かわいいよ。かわいいんだけどね。
さて、もうこの文章『私と北条政子』も3000字を越えた。本来だとこの辺りである程度の説明を終え、読者は「なるほど」といって膝を打ち、あとは含蓄あふれる後半に突入するといった頃合いだが、あなたは北条政子のことが全然わかっていないだろう。
本当に申し訳ない。ここまで読んでくれたあなたへの恩は山より高く、海より深い。その恩に報いようとの思いが浅いことがあろうか。いや、ない。というわけで、急いで北条政子の人柄に迫っていく。人柄は文字に宿るというので、彼女直筆の書状を見てみよう。百聞は一見にしかずだ。ばばーん。
よめない。
清々しいほど読めない。どこかに訳が載っていた気がするのだがもう文献を見返したくない。
見返した。あった。
関幸彦『北条政子』にこう書かれている。
これを探すのに2時間かかった。私も心痛を語りたい。しかし4000字を突破したのでそんな暇はない。淡々と一次資料だけを持ってくるNHKのプロ意識が身に染みる。この書状がいつの時点で誰に送られたのかは不明だが、文面から察するに子女を亡くした政子への見舞いに対する返事だと推測されている。
実は、政子は頼朝との間に4人の子を授かるのだが、家族全員が政子より先に死ぬ。
愛する頼朝に付き添い、将軍の妻になった人生が幸福だったかと言えば、そうでもない。長女大姫を41歳で看取り、最愛の夫頼朝と次女乙姫を43歳で続けざまに失い、48歳で次男頼家が幽閉先の修禅寺で病死、63歳で三男実朝が頼家の息子の公暁に殺される。その公暁も追手に殺される。後半がどうしようもないほど不幸だ。
しかし鎌倉の重鎮に嘆く暇は与えられない。晩年は母でも妻でも女でもいられなかった。公暁の死で将軍の血は完全に途絶え、それと同時に将軍が空席になるというますます混沌とした動乱のなかで、政子が仏道に入っていったのも無理はない。「尼将軍」という異名は悲劇の上に生まれた。だからツルピカハゲとはもう二度と呼ばない。髪に誓おう。
ここまで彼女の過酷な人生をダイジェスト風にまとめたが、政子を語るにはまだ足りない。政子ちゃんはただの悲劇のヒロインではないのだ。それが伝わるのが、将軍の血族が滅んだ翌年に起きる承久の乱を前にした、
政子65歳の大演説である。
御恩と奉公という言葉を聞いたことある人もいるだろう。これは政子の見事な演説の例としてよく取り上げられる。まず鎌倉を開いた頼朝から続く三代将軍の功績を淡々と説き、次に情緒に訴えかけ、最後は敵を討つという明確な目的を示す。
文献によっては演説の前に自らの悲嘆をとうとうと語り聴衆を引き付ける「つかみ」まで書かれたものもある。おそるべきスーパーおばあちゃんだ。
そしてこの演説の真剣さに心打たれ、庭まであふれた御家人一同はおいおいと大粒の涙を流し、幕府の恩に従うため戦うことを決意した。こうして家人の動揺は防がれた。めでたしめでたし。
というわけなのだが、私はこの記述を読んだときにこう思った。男ってそこまで馬鹿じゃねーだろと。
鎌倉に迫る敵は、北条義時追討の宣旨を受け取った官軍である。院宜を帯して朝敵を討つという旗印が無類の強さを誇ることは、同じ名目で平家を滅ぼした源氏の御家人も知っている。そもそも上皇や天皇が神と同義である中世の人々は、朝廷と戦うこと自体に迷いや動揺があるのだ。あなたは戦わなくていいし、もうじき死ぬバーさんだから好き勝手言いなさるが、しょうもない演説ならいっそ朝廷側に寝返ってやる。そう思って演説を聞いた御家人もいたはずだ。
しかし結果として、政子の演説を聞いた御家人たちは戦った。承久の乱は上皇が義時追討の宣旨を出してから約一か月も続き、承久三年の六月十五日、鎌倉は官軍に勝利した。この戦でおそらくたくさんの人が死んだ。御家人は必死こいて戦って、戦って、戦い抜いた。それなのに彼らが戦場で戦う様子は『吾妻鏡』になにひとつ残っていない。
彼らはなぜ戦えたのだろう。何に希望を見出したのだろう。私にはわからなかった。しかし、しばらく考えているうちに、頭の中に漫画『キングダム』のあるシーンが浮かび上がってきた。
史実では函谷関の戦いと呼ばれる楚・趙・燕・韓・魏の五国合従軍と秦軍との戦いの最終局面。秦の皇帝である嬴政に焚きつけられた秦の民たちは国を守るために武器を取る。彼らは大半が死ぬまで戦い続け、彼らの奮闘で秦はなんとか難局を脱する。
私が思い出したのはこの戦のあと、嬴政が主人公の信に王の苦悩と本音を打ち明ける場面だ。いくつかページをまたぐので、不本意ながら一部だけセリフを抜き出して書く。
そうか。鎌倉の男たちも、全部わかっていて演説を聞いていたのかもしれない。さらに言えば、政子は己の苦悩を語って同情を誘う悲劇のヒロインの道を選ばず、いっそ苦悩すら聴衆をまとめる演説の前座に利用する賢さと強さを持っていた。
政子も哀しくないはずがない。しかしそれは御家人を束ねる「尼将軍」が見せるべき姿ではなかった。たとえ死んでも自分の菩提を供養してくれるという安らぎを与えるのが「尼」であり、生きた兵士を言葉巧みに死地へ導くのが「将軍」だ。この矛盾した立場のなかで、懸命に道を模索し続けたのである。
彼女は自身を「辺鄙の老尼」と自称した(『吾妻鏡』)が、朝廷と幕府のどちらにつくか迷っていた御家人がひとつにまとまったのは、この覚悟と人徳が伝わったからだろう。もし政子が本当に後世で語られたような悪女であったなら、鎌倉はここで崩壊していたに違いない。
そして承久の乱の4年後、政子は69歳で息を引き取った。嘉禄元年(1225)7月11日のことである。『吾妻鏡』は
「神功皇后が我が国に再生し、この国の基礎を守られたのだろうか」
と大絶賛しているが、こう書かれて彼女が喜んだかどうかはわからない。しかし彼女の守った北条家は50年後に元から日本を守る。
北条の家紋は三つ鱗。『太平記』には「鎌倉のはじめ、北条時政が江の島に参籠して祈願をすると、満願の三、七、二十一日目の夜美女が忽然として現われ、やがて大蛇と変じて海中に没した。気が付くと、あとに大鱗を三つ落している。時政は願いがかなったと喜び、三つ鱗をもって家紋とした」とある。
そして「『蒙古襲来絵詞』の北条氏一族と思われる武士に、この紋が見える」と『家紋大辞典』(東京堂出版)に書いてあったので、私は嬉々として調べたが見つからなかった。
どうか私が旗だけ切り抜いてきた努力の結晶をご覧いただきたい。絶対に全部違う。
三回見返しても見つからない。どこなのだろう。ちなみに、ここで辛酸を舐めた私の意思を次いで、この絵巻物から三つ鱗を探す物語が『ゼルダの伝説』である。
さあ、これで政子をめぐる第2章はおわり。
ここから先は、きみの目でたしかめてくれ!
3. 北条政子とおっぱい
最後はおっぱいの話だ。突然だろうか。だが突起しているのがおっぱいだ。政子ちゃんへの理解は『北条政子と神々のトライフォース2』で深まったので、今度はおっぱいの理解を深めよう。初心に帰って定義からはじめる。私はすぐ辞書を引いた。
さて、
これでおっぱいについて理解は深まっただろうか。ちなみに私はこれを調べたあとにあと6個記録して『おっぱい殿の13人』にすれば良かったと嘆いたが、それと同時に自分がおかしくなってしまったことを自覚した。「おっぱいの一次資料に触れたぞ!」と胸を張っている場合ではない。本物のおっぱいがどんどん遠ざかっている。そもそもおっぱいの一次資料は辞書ではなくおっぱいだ。いくらおっぱいの語源を知っていたところで揉めるおっぱいの源泉は増えない。おっぱいのアイヌ語訳を知っていたからといってそんなシチュエーションはこない。おっぱいのアクセントを気にするやつはばかである。
ここで私ははじめて、自分がなぜ北条政子とおっぱいにこれほどの情熱を注いでいるのか考え始めた。今更である。規定文字数まで残り1500字ちょっとしかない。そのうち1000字は謝辞だ。いくら私に愉快おっぱい犯の素質があったとしても、それだけで文章が書けるほど甘くはないし、文献をいくつも読めないし、おっぱいを辞書で引いたりしない。なぜだ。なぜ私はこんな文章を書いてしまったのだ。そうして私は考えて、考えて、考えて——解を得た。
4. おわりに
結論をいえば、私は誰かのおっぱいを書きたかったということだ。警察を呼ぶのはもうすこしだけ待ってほしい。最初に私は吸いたくても吸えなかったおっぱいの話をしたが、吸いたくても吸えないおっぱいとは何だろうか。私が高校で見事にフラれたさとみちゃんも、頼朝公の御恩を説けば、吸わせてくれるかもしれない。では吸いたくても吸えないおっぱいとは、はたして何か。私が思うに、私たちがもう吸えないおっぱいは2つある。
第一に、死者のおっぱいである。私たちは生きているおっぱいしか吸えない。あたりまえだ。しかし死んだ人のおっぱいを求めている人は、この世にたくさんいる。反対に死んだ人におっぱいを吸ってもらいたい人も、私は女性じゃないからわからないが、たぶんたくさんいる。生まれたときにはこの世にいなかった人、二度と会えない人、かつて愛した人、今も愛している人。どんな男でも、ときどき暗い部屋で誰かのおっぱいを吸いたくなる時があるのだ。女性については、聞いてみないとわからない。
第二に、母親のおっぱいである。私たちはいまさら母親のおっぱいを吸えない。あたりまえだ。しかし母親のおっぱいを求めている人も、これまたたくさんいる。性的魅力ではない。私たちはいつも愛されたいのだ。母親のおっぱいを一度も吸えずにおとなになった人でさえ、誰かのおっぱいを吸いたがる。それはきっと愛を求めているからだ。
私たちはたしかめたいのだ。母親からいつかもらった愛を、母親からもらえなかった愛を、母親から人がもらっていた愛を、母親がいたらもらえたはずの愛を、受け取っていいのだと。そして誰かを愛してもいいのだと。
この点において、北条政子は2つのおっぱいを持ち合わせた女性だった。おっぱいはもとから2つだ。そういうことではない。彼女のおっぱいが性的とかそういうことでも決してない。というか私はこれだけ書いたのに一度も政子をエロい目で見ていない。それはなぜか。決してツルピカハゲだからではない。彼女の中に母性と神性を同時に見たからである。
鎌倉を生きる人々にとって、政子は皆の心を包み込む鎌倉の母であり、死者の御霊を背負う尼であった。鎌倉では親子や兄弟間での血みどろの戦いは日常茶飯事である。暴力が跋扈し、謀略と讒言がはびこる時代の状況を考えると、政子は驚くほど愛にあふれていた。彼女の前では、誰もがおっぱいに吸いつく赤子のような感覚を持ったに違いない。
そして同時に、彼女は男を尻に敷く才能も持っていた。強く、賢い女性だった。あの戦乱の中で政子が凶刃に散ることがなかったのもそのためかもしれない。愛そのものを殺すことは出来ない。政敵は殺せても母親は殺せなかった。皮肉なことに私たちも最近、それを改めて突き付けられている。そんな時代だからこそ、彼女のように人を慈愛の心で包むおっぱいと、親愛の心で押しつぶすお尻が必要なのだ。
私はおっぱい派なので、誰かのおっぱいを書きたい。おっぱいを書いて、読んだ誰かの心を少しだけ包みたい。しかしもう文字の限界が来てしまった。早口かつ言葉足らずですまない。今の私に書けるおっぱいはこれで精おっぱいである。あ、はい、なんでしょう。ええ、ああ、あ、警察ですか。
5. 心からの謝辞
この企画を用意してくださった田中泰延さま、SBクリエイティブ社学芸書籍編集部のみなさまに感謝を申し上げる。
まずは田中泰延さま、あなたに感謝したいことが山ほどある。なにより今回読みたいことが、ついに書けた。あとはあなたと会って、話したいところだが、他の方の文章が私より上手だったら仕方ない。同じように時間をかけて書かれた作品だ。悔しいがそのときは『脱ぐ術——働く君に伝えたい 隠れて、脱ぐ技術』という本を代わりに出させてほしい。それか『超一流の猥談力』でもいい。連絡を待っている。私は福岡在住だが呼ばれれば東京へ行く。渋谷のスクランブル交差点で今様を踊る準備も、私にはある。嘘だ。それでは国会図書館で会いましょう。
続いてSBクリエイティブさま、あなたがたにも伝えたいことが山ほどある。そろそろ面白い本を出して私の財布を破壊するのをやめてほしい。気づけば金が消えている。これが22世紀の資本主義だろうか。というか、GA文庫もあるじゃないですか! 私は『ダンまち』を全巻持っている。これに落ちたらそっちの編集者と繋げてほしい。とにかく、あなたたちが作る本に勇気づけられていることを伝えたい。これからもお仕事頑張ってください。叶うことなら、一緒に頑張りたいものです。
さいごに、もうひとり。この企画に応募しようかどうか迷っていた7月21日夕暮れの帰り道、下を向いていた私にクラクションを鳴らし、横断歩道を渡らせてくれた西鉄バスの名も知れぬ運転手のおっちゃんに最大限の感謝を述べたい。あなたのおかげで書こうと思えた。そして書けた。本当に、ありがとうございました。
2022年7月31日 直塚大成