恩讐〜普通になれない僕の人生〜
ノンフィクションです。僕の今までにあったことをそのまま書きました。
長い上に読みづらいと思います。すみません。でも読んでくださると嬉しいです。できれば僕と同じような「生きづらさ」を抱えている人に読んでいただけたらいいなと思います。
________________________________________________________________________________
「当たり前のことがどうしてできないの?」それは僕が一番聞きたいことだ。
僕はどうやら人とは違うらしい。生まれてからずっとそう思っていたけれど、大人になってからようやく、僕みたいな人のことを「ギフテッド」と呼ぶらしいと知った。
世界は光と彩に満ちている。
だけど、僕の世界は真っ白で、真っ黒だ。
僕の家族とはじまり
1994年の春の訪れを感じる季節に、とある田舎町に一人の子どもが生まれた。目の大きい女の子みたいな男の子。体重は平均よりも半分くらいの小さな小さな子どもだった。
生まれてすぐに保育器にいた僕は、動物の絵と名前をすでに知っていたみたいだ。動物の名前を聞くと目で追っていて、お医者さんや看護師さんを驚かせていた。
未熟児だった上に尿路感染し、一時は命が危ないということもあったらしいけれど、なんとか命をつなぎ、無事保育器の外の世界へ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、お姉ちゃんと僕。6人家族の生活が始まる。
僕の父は会社の経営者で、一代で当時その地域最大のゼネコン企業を築いた人。
母は元オペラ歌手。その後、料亭を経営し、当時アサヒビールの売り上げ日本一を誇る有名店に育てた人。
祖父は町の議員で、16年勤め上げた地元のヒーロー。退職後はタクシー会社を立ち上げ、その地域では誰もが名前を知る会社にした人。
祖母は戦後、たこ焼き屋を開店して、焼け野原になった何もない街の若者に食べ物を作り続けた人。
僕は3歳になるまで、活発だけれどほとんど言葉を発さない子どもだったらしい。そんな僕を心配しながらも、見守ってくれる家族に囲まれて、すくすくと元気に育った。
幼少期の僕と家族との別れ
3歳になったとき、父が肝臓癌で死んだ。臨終の最中、僕は父に名前を呼ばれた。手を握られ、「がんばれ」と言われた。意味がいまいち分からなかったが、「うん」と答えたら父は笑った。そのあと、すぐに手が落ちていった。僕の人生で一番古い記憶だ。
祖父も同じ時期に病死した。記憶はあまりない。ただ、壮絶な死だったと聞かされたことがある。何となく顔は覚えている程度だ。
父や祖父が亡くなったのと同時期に、母は持病が悪化し、サンゴ状結石を患い、片方の腎臓を摘出した。残ったもう片方の腎臓も悪く、腎不全で余命宣告を受けた。長くて後2年と言われていたらしい。ただ、母はド根性の人で、宣告を何度も乗り越えて20数年経った今でもなんとか生きているが、もうそう長くはないみたいだ。
病床の母は厳しく、僕は3歳で掛け算を、4歳で漢詩を覚えた。間違うと目覚まし時計や鉛筆削りなどの物を投げつけられた。たぶん父がいない僕に厳しさを伝えたかったのだと思う。自分が病気でいつ死ぬかわからないから、より厳しくなっていたのだろう。だから僕は、病床の母に代わり、祖母と姉に育てられた。
祖母は、そんな厳しい母から僕を守ってくれた。いつも撫でてくれたし、いつも抱っこしてもらっていた。どんなときも僕は祖母にくっ付いて歩いていたので、僕と祖母はいつもセットだった。
姉も優しかった。僕を育てるために大学を諦め、塾でバイトして僕の世話をしてくれた。歳が離れているからよく親子だと間違われた。
そしてその頃から僕は、世界のいろいろなものに興味を持つようになった。
例えば、4歳から5歳のころ、広辞苑を読破した。それだけでは飽き足らず、版の違う広辞苑を読み比べてみたりもしていた。百科事典は暗記するほど大好きだった。いろいろな知識が載っている辞書は、僕にとっておもちゃのようなものだった。
その他にも、百人一首や和歌も大好きで、百人一首は暗記していた。また、藤原道長の句をもじって、自作の句を詠んだこともあった。自作の句は今でも実家に飾ってある。
うちは貧乏な家庭だった。父と祖父が死んだ後、会社が潰れたことで出てきた借金が膨大で、今思うと生活はまさに地獄だった。ご飯もあまりなかった。だけど僕は当時、幸せを感じていたし、決して泣くことはなかった。僕がふざけて、家族が笑ってくれるだけでうれしかった。
父との約束もあるから、僕は強くなりたかった。
小学生になった僕とHipHopとの出会い
小学生のときは毎日学校で怒られていた。というのは、いわゆるイタズラ好きだったからだ。あまり記憶はないが、たぶん毎月何かしらの理由で学校のガラスを割っていた。ボールをぶつけたとか、走って転んで突っ込んだとかだ。
問題児だった僕だが、校長先生とは仲良しで、毎朝校長室に遊びに行って大声で演歌を歌っていた。大声すぎて近くの住民まで聞こえていたらしい。珍しく僕の歌声が聞こえなかったり、怒られていない「良い子の日」はむしろ僕が休みなのかと近隣の人々に心配されていた。
そういえば、保育園にいたときも毎日ガラスを割っていた記憶がある。乗れもしないのに大人用の自転車に乗って、走れはするがブレーキの掛け方を知らなかったので、「ぶつかれば止まる!」と思ってガラスドアに自分からぶつかりに向かっていった。当然先生たちには怒られていたのだが、僕は内心「無事に止まれた!」と喜んでいたのは内緒。
学校の成績は良かった。先生が説明する前に、今日1日で出てくるであろう問題と答えを予想して叫んでいた。先生には迷惑だと怒られた。
毎回同じような内容をやる授業に飽き、「先生はバカか。同じことばかり繰り返して」と言い放ち、親が呼び出しを受けたこともある。
夏休みの自由研究では、A4の紙を大量に使って長さ50mを超える日本の歴史年表を制作した。廊下の壁全てを埋め尽くすことが目的で、自分の制作物が学校を占拠したみたいな感覚が嬉しかった。
小学生のときに、NHKでやっていた栄花直輝さんのドキュメンタリー「ただ一撃にかける」を見て衝撃を受けた僕は剣道を始めた。また、姉が習っていた書道も始めた。ただ、学校のクラブ活動で、男子はみんな野球をやっているのに、僕は学校から家が遠いことと剣道もやっていたことから、野球クラブに参加しなかった。僕はそれが理由でいじめにあった。落ち葉の山に投げ入れられ、ライターで火をつけられたこともある。
「貧乏のくせにみんなと違うことをするな」
毎日誰かに言われた。
田舎の、さらに山の中にある学校だったので同級生は16人しかいない。中学になると3校が合わさるので120人になる。
このままじゃいじめられると思った僕は、何か新しいものを知ろうと思ってTSUTAYAに連れて行ってもらった。そこで何もわからずテンパって取りあえず目の前にあるCDを借りた。ラッパ我リヤとキングギドラ、日本語のHipHopだった。
剣道、書道、HipHopにのめり込み、充実していた中学時代
中学に入ったらいじめられるんじゃないかという心配は杞憂に終わり、中学生になるといじめられることはなくなった。
剣道部ではキャプテンを務め、全国ベスト8入賞も果たした。敢闘賞だった。書道も順調に段位を取得して教育免許まで取ることもできたし、勉強の成績も常にトップ。夏休みの読書感想文では県の最優秀賞もとった。
友達も多くできた。
1年のときには3年生の教室に遊びに入り浸ったり、僕が3年生になったときは1年生たちから毎日昼休みに呼ばれたりと、僕の周りは人がいっぱいだった。楽しかった。
小学生のときに出会ったHipHopは、中学に入ってからどんどんのめり込んでいった。幼いころからイタズラばかりの問題児だったけれど、僕の根っこはずっと真面目な良い子だったから、HipHopのストレートな言葉に、「自分の考えていることを、こんなにはっきり言って良いんだ!」と驚いた。
「DJってかっこいい!」と思ってどうしてもやりたくなった。が、うちには機材を買うお金などない。だから視聴覚室に忍び込んで、パソコンでネットオークションを探し回り、格安でDJ機材を落札した。お金は自販機の下を探して貯めた。届いてからは家でひたすらDJを練習していた。
剣道や書道、DJにものめり込んでいたが、僕は勉強も好きだった。1日の授業6時間分、先生の朝のあいさつから授業中の言葉や呼吸の位置まで記憶して、帰宅後すべて早口で3時間かけてリピートしていた。
僕は幼いときにお父さんを亡くして、医者になりたいと思っていたから、医学部を目指す人が多くいる有名私立高校を受験し、合格した。だけど、お金がないから行けないと後で知った。
実質飛び級なのでは?と1年生で取得した高卒認定、そして引きこもり生活へ
中学でお世話になった剣道部の尊敬する先輩がいたから、という理由で地元にある公立の進学校へ入学した。その頃から頭痛がひどく、休みがちになった。学校へ行くと先生たちはあいさつをしてくれなくなり、部活では尊敬していた先輩にいじめを受けた。入部してすぐの部内戦で全員倒してしまったことから反感を買ったのだと知った。
ある朝から突然起き上がれなくなった。母に怒鳴られなんとか起きたが、動けない。病院に連れて行ってもらったが、原因不明。そんなことが3ヶ月続き、もしかして精神的なものか?と思い、心療内科を受診。
対人恐怖症と発達障害だと診断された。
そこからは地獄の日々。薬を飲み、寝て、起きて、また薬を飲む。改善されないから薬はどんどん増えるし、太るし、そのうち引きこもるようになっていった。
このままだとやばいと思っていた僕は、偶然、高卒認定制度を知る。
高校に行かなくても高卒資格を得られる制度。「これを取れば高校に行かなくても大学受験がすぐできる、これは取るしかない」と思ったので即受験し、高校1年の夏に高卒資格試験に合格した。そのまま学校は退学した。
しかし僕はアホだった。18歳にならないと資格が付与されない。
参考:https://studyu.jp/feature/basic/konin/
2年半の間、僕はまた引きこもった。
18歳になる頃、医学部入学を考えたが、学校に通う交通費も入学金もない。お金がとにかく必要だった。「先にお金を稼ごう」と思い、仕事をするなら大都会だ!と安直に思い、上京を決意した。
姉に頼み込んで上京費用を借りた。この十数年間、家の借金を返済し続け、身を犠牲にして僕の教育費のために姉が必死に貯めた20万円。それを借りて上京した。もうこれは退けないなと思った。
営業職に就職、日本一の成績!なのに……
上京してすぐ、友達ができた。同じ地元出身という同い年の男の子。彼の紹介でとある社長に出会った。スーツを仕立てる会社をやっている人で、渋谷のマークシティのラウンジに呼ばれた。コーヒー1杯1000円くらい。僕は驚愕した。「ここに来る人みんな金持ちだ!」
そんなこんなで待っていると、ビシッとスーツを着こなすイケメン社長が現れた。僕は中学から着ているボロボロのパーカー。ラウンジに並んで座るのが恥ずかしかった。
「すぐにいいスーツ着れるようになるから、まずは営業マンになって稼ごう」と言われた。
その社長から営業会社を紹介された。いろんなモノの訪問営業をやる会社だ。社長はなんと同じ地元出身!嬉しかった。
僕はやる気しか取り柄がなく、ビジネスなんて知らなかったが、なんとか面接をクリアし、入社。研修なんてものはなく即現場へ。まずは1日2件を目標にしてと言われた。
初日、僕は10件獲得した。
その後、毎日営業に出て、契約を取りに取りまくった。ハロウィンやワールドカップなどで盛り上がる渋谷に繰り出し、盛り上がるタイミングで名刺を数百枚振りまいたりして月に200件近く契約を取った。当時の成績は日本一だった。だけど給料は月2万だった。
社長に何故かと聞くと、「会社はいろんな費用がかかるから、まだ君の分のコストを回収できてない。もっと頑張れば給料が上がるよ」と言われた。
と、同時に「社員証を作ろう。これは会社が保管するのが当たり前なんだよ」と言われ、クレジットカード窓口に連れて行かれた。
僕は、クレジットカードの存在を知らなかった。それに同じ地元の人だったので信じきっていた。クレジットカードを発行し、社長に預けた。
その後、給料はもらえず、電気が止まり、次にガス、水道が止まる。家賃が払えずにホームレスになった。公園に寝泊まりした。公園周りに生えている植え込みの間は少し暖かい。
社長に直訴すると殴られた。グーで6発、ほっぺたにもらった。
もうダメだと思い、会社を辞めた。と、同時にクレジットカード会社から督促の電話がきた。身に覚えのない請求。
社長から「会社辞めたから社員証は破棄するね。」というメールが来ていた。
独立と失敗、そして独立
「負けてなるものか!」と、起業を決意。営業仲間を呼んで合同会社を作った。
営業受託会社。個人投資家に企画を話し、投資を得た。しかし、その後、営業仲間からの資本金持ち逃げに遭い、秒速で失敗。借金だけが残った。
不動産の営業を個人で行い、なんとか返済をした。
気力が消えかけていた。僕はもう保険金でもかけて死のうかと思った。それで姉にお金を送ろう。
幼馴染から電話が来た。色々話したら、「DJ好きなんだったらDJやれば?」と言われた。
音楽なんて食べていけないよと答えると、「今もじゃん」と返答され納得した。
僕は東京でDJをやろうと思った。
まずは視察をするために、渋谷のクラブに出向いた。そこにあのラッパ我リヤやキングギドラのメンバーがいた。僕はなりふり構わずDJをさせてくれ!と叫んだ。オーガナイザーにチャンスをもらって、後日、彼らの前で彼らのレコードをひたすらスクラッチしまくった。
「お前、気合い入ってるね」
この一言がもらえた。そこからDJキャリアがスタートした。
DJは本当に食べていけない。基本ノーギャラだし、大きなイベントは出させてもらえない、下積み生活。
変な先輩からは「ナンパして彼女10人作れば客にできるから、ナンパしてこい」と蹴り出されたこともある。僕はDJスキル一本で行きたかったから先輩の言うようなことはせず、フライヤーを川に投げ捨て、ひたすらレコードを買って練習する日々を過ごした。
そして、だんだんギャラを貰えるようになっていった。
最初は1000円、1500円、少しずつ増えていった。ゲストDJとして呼んでもらえるようになり、メジャーアーティストたちともコラボしたり、順調だ。
ギャラは大台の数万円に。やっと生活ができてきたぞ、もう少し、もう少し。
そして訪れた、コロナ禍。
月40本の出演予定が全て吹き飛んだ。
このままではダメだと思い、書道教室もやることにした。地域の人たちと一緒に書道やDJを通したコミュニティを作ろうと計画した。
「いいものを作るだけじゃ意味はなく、伝えなきゃいけない」そう気づき、自分が考えていること、表現したいものを伝えるための術として、デザインを勉強しようと思った。
ご縁あって、イタリア本国GUCCIのデザイナーと知り合った。江戸時代の古書の再編纂をやりたいというので、「和紙に古書の表題を新たに書き、それを電子レンジで焼いて時代感を作り、同じ時代のイタリアの布生地に焼き込み装丁する」というアイデアを提案した。
無料でやる代わりにデザインを教えてくれと頼み、快く引き受けてくれた。それからグラフィックデザインを勉強し始めた。初日に作った作品がこれ。
出演が吹き飛んで困っている僕に、昔DJのお客さんとしてきてくれていたAさんが声をかけてくれた。Aさんの仕事を手伝いながら活動していくことになり、とある田舎へ引っ越した。
僕は地域の人に気に入ってもらえて、家族ぐるみでいつもお茶に誘ってもらうようになったり、楽しく仕事ができるようになってきた。コミュニティがつくれると思ってワクワクした。
地域の方々と、仲良くなったのがよくなかったのだろうか。その後、いつも親切にしてくれていたAさんに「仕事を乗っ取られる」と吹聴されるようになった。
力仕事や面倒な仕事は、いつも僕が朝早くから勤務することでまかなっていたが、「発達障害持ちのあなたに仕事なんて任せられない!」とメッセンジャーで怒鳴られた。SNSでライブ配信しながら、ひたすら文句を言われ、僕もつながっているSNSで僕への愚痴を書かれるようになった。Aさんはほとんど仕事に来ないまま、そんなことをやっていた。
僕は別の職場に異動になった。
新しい職場との面接では、「DJ、書道、営業のスキルを使って、広報とグラフィックをやってくれ!」と言われた。
初めて自分の力を使える!と思った。
そして今、僕は、広報もグラフィックもやっていない。
新しい仕事に気合を入れて、広報のために、個人的な伝手をたどって作ってきたつながりも、「今他のことで忙しい」という理由で突き放されてしまった。僕は初めて自分の力を認めてくれるところに来れたんだと思っていたけれど、本当は、音楽業界とのつながりや労働力を安く買えると踏んで採用したらしかった。
悔しいので他の人が半年以上かかって覚えた仕事を僕は1週間足らずで覚えた。しかし、耳元で「1週間経ったよ。まだ君は使えないまま?いつまで待てばいい?」と囁かれる。
上に注意されたからと、タイムカードをちゃんときってと言われるようになった。もちろんタイムカードを切った後も仕事の話や作業が続く。人がどんどん辞めていく。僕は毎日、ひたすら在庫の数を数えて1日が終わる。
何もしていない時に不意に涙が出るようになった。人前では決して泣くことのできなかった僕は、むしろ泣き虫になった。
あれだけ好きだった音楽もあまり聴いていない。聴いても頭に入ってこないから、聴く必要もない。
終わりが見えない。
これをやったらこうなる、物事の先は誰よりも早く見えるのに。
病院へ行き、詳しい検査をした結果、ギフテッドであることが判明した。IQでいうと138とのことだった。しかし僕は自分がどんなものなのかわからない。自分を知るために、頭の中にある映像を絵にしてみようと思い、初めて点描をやってみているが、終わりは見えない。
朝起きて、仕事をして、普通に生きていきたいが、やり方がわからない。
そして僕は真っ白のまま、黒くなっていく。
少しずつ少しずつ、黒い点が増えていく。
この世界はちょっとだけ、生きづらい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?