嘘日記|「完璧な君」
ふと思い立って、家を出された。
なんの靴を履いたかも忘れながら、今に集中して、夜の道をずかずかと歩く。
行き先は決まっていない、と心の中で呟きながら、約束の場所へまっすぐ向かう。
左腕を見る癖がついたままだが、腕時計のついていない今ではその癖はただの抜け殻だ。
スマホで時間を確認、23:09。
小走りで駅に向かう。ほおを切る冷たい風が、内側から少しずつ吹き出す汗とぶつかって、痒い。
改札を抜ける。
エレベーターに乗る。
電車に乗る。
電車を降りる。
エレベーターに乗る。
改札を抜ける。
板チョコレートを溶かしてもう一回固め直して、なんだかやっぱり恋は盲目なんですね。を思い出す。僕も今、恋だ。
明日の朝までに済ませなければならない仕事が、実はたっぷりとあった。でもそれは隣の人が持つ荷物みたいに、全然実感をともなう重さはなかった。
電話をかける。
こんばんは。今、時間ありますか。僕と会ってくれませんか。すっぴんで大丈夫です。じゃあ目を瞑りますから。どうか降りてきてください。
ぷつ。と切れた電話に残る彼女の口の形は、僕をにやつかせて浮つかせた。
心なしか、彼女のシャンプーの匂いが、柔軟剤の匂いが、体臭が、僕の鼻腔に届いてくるような感じがする。
ガチャア...と開いたドアの陰から君が現れた。あぁ...。溶けてしまいそうになる。膝が抜けて肩が抜けて、奥歯が抜けて僕は白目を剥く。彼女が少しだけ早く歩いて近づいてくる。ゆっくりでいいんですよ。あなたの場合は、あえてゆっくりで...。
彼女は艶やかな優しさで僕を温めた。冬の夜に爛々と光る街灯は、ショートケーキに乗ったイチゴみたいだって、大昔に君のお母さんが言っていたよ。もう亡くなってしまったんだったね。
彼女は笑わない。僕の方を見ない。伏し目、すっと伸びた鼻、想像したのより少しだけ、ほんの少しだけ甘さが控えめな香り。
たまらない、食べて、咀嚼して、貪り尽くしたいこの人を...。
何か言うの?それとも僕が何か言わなければ、君は何も言わないの?もしそうなら、いつまで君はそうしていられるの?僕とずっと、こうしていられますか?
雪が積もっていれば乾燥していたはずの距離は、湿ったコンクリートでむしろ縮められている気がする。彼女から伸びてくる見えない触手が、直接僕の脳を締め付けてくる。
すぅ、と君は息を吸う。少し大きく。はぁ、と君は息を吐く。真っ白な息。綺麗な息。
僕はもう帰るね、と言うと、君は表情一寸も変えず、うん。
それだけ言う。
なんて君は、正解ばっかり出すのですか。どうしてもやめられない、クスリみたいなあなたなのです。どうか、僕を解放してください。僕を自由にしてください...。
君はずっと伏し目で、うんと言ったのに、ちっとも家の中に入ろうとしないで、僕にまだ帰って欲しくないみたいに、かと思えばいたずらっ子のような微笑で、帰るんでしょ?なんて言って、もう僕は、帰っても帰らなくてもどっちでも良くなって、でもごめんなさい僕へ、僕が僕であるために、行かなきゃならない。
またね。おやすみなさい。あぁ...。
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