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病名は「私」なんじゃないか。

どうにも、どうにも感情の振れ幅が大きい。

最近特にそうだと思う。上がっているときはそれはもう世界が私に優しいことに甘えきって人生超ハッピー幸せの真っ只中で明日からも力技でポジティブに明るくいきていけるぜ、という自信に満ち溢れているのに、そうじゃないときは全然そうじゃない。

何の才能も成果も持たない己の唯一すがれるものが一体何かみたいな泥水の中ですらない透明で無味無臭のおそらく体温と同じ温度のなんの差異もない空気みたいなそれでいてぎっちりと詰まりきった透明の個体の中に顔だけ出して全部後は埋め込まれているみたいだ。

病院に行けば、過去そうであったように「診断」はつくだろう。
それは言うなれば「人よりちょっとやばいから外的な手助けが必要」という状況に「判別」がつくだけであって、完成したクロスワードのように見た目でも実際にもはっきりとわかる名称がもらえるわけじゃない。

それはど真ん中じゃない。欲しい言葉の。

じゃあなにが欲しいのかと言われても、もう何も欲しくないような思考の停滞がはっきりとあって、何が欲しいのかもわからないけれど私はここから一歩も動かずにもがかずに救われたいとかいう口が裂けても言えないようなクソ甘ったれた願いしかない。

なんで、なんでなにもわからないんだ。
自分のことだぞ。

だから、つまり、これは、「私」という病なんじゃないか。
もうそういう、一種の疾患なんじゃないか。

頭痛が外見からわからないけど、発症中の本人からしてみればもうこれ以上ほかの何もいらないほど苦しいというか世界が滅べって思うし、突発的に原因不明の発熱をしているときの体のだるさとか苦しさとか呼吸器官をどうにかしてしまったときに遭遇した歩きタバコへの殺意とか。

程度に差はあれど、全部その原因が己にあるのなら、「私」とかいう名前の、病なんじゃないか。完治しないし、治療法がないけど。

なんか、だんだん人格というか思考回路を個々として独立させていこうとしているけど。
私も私も私も全部一個体の中のどうにもできない思考回路の名前なのであれば、確かに私だよな。

わかる。私だもの。
自分のことの中でわからないことなどありすぎて数えられもしないけど、じゃあ、嫌いかっていうとそうじゃない。

嫌いになれない病かもしれない。
嫌ってしまったら生きるのをやめるしかないので、そこまではまだブレーキがかかっているのかもしれない。

でもだからこそ、ほかのものを積極的に嫌いになることの反射で傷つきたいのかもしれない。
世界が愛そうとしていることを否定して、被害者ぶって誰かを待っているのかもしれない。

一番嫌いなやつになりたくないと思って強く拒否して否定するのは、そこに一番己が近いと思っていることの裏返しだ。

怒りや拒絶はその人間の弱点を覆い隠そうとする防衛本能だから、完全に弱点を晒している。

簡単に病気だ、ということへの危険性はわかっていて、その上でこの気分の振れ幅の大きさに疲れているのは事実なので、もはやこれは己自身に対する病といっても過言ではないような気がしている。

生活に明確な支障が出ないのがまた。これだよ、表面は普通にできてしまう。

このあたりのことを満遍なくさらけ出せる友人がいるので最高に恵まれていると思う。
カッコつけたがりだからカッコつけて言うけど。そう言う意味ではさらけ出してはないけど、けっこうギリギリなところまで喋ってる過去。

インプットに対してアウトプットの手法が正しくなくて、正確には何か描きたいけどずっとほかのことをやってるせいで自分自身の描きたい部分がいじけているような気がする。
描けよ、と思うんだけどなぜかそれが素直にできない外的事情と内的な事情が相俟ってあらゆることに邪魔をされ邪魔をしていて、どうにもペンと紙までたどり着けないしそう言う言い訳を用意しては逃げ続けている自分の存在も感知している。

思うに自分というものは全然一つじゃなくてあらゆる方面でカバーされていて本来であればうまいこと運用されているのだろうけど、自分にはそれがないような気がしている。

そこそこいきていけるけど、なんにもなれないきがしている。

ただ、ただここでこうして息をしている己は一つきりなので、言葉を探して、指を動かしている。
なんだろうな、書けば書くほど魂が空虚であることばかりわかってくるな。

ただ、器が空なのであれば、そこに何を入れるかは完全に自由であって、楽しくなってくる。
引越しの予定もなく不動産の間取り図を見てあれこれとその生活を妄想するのが好きである。無駄にインテリアとか凝る。

こうやって、最初から最低だなあと思う自分についての観察を書いて、それで最後の着地が上むいてるならそれでいいんだろうなと思う。

吐き出すことが悪くはなくて、吐き出し方と吐き出す際の言葉選びと場所が悪いのだと思っている。悪い、ということがあったとしたら。
着地が明るいかどうか、明るく着地できるかどうか、試している節もある。

反復横跳びのような、たぶん安定のための反復行為だ。いつもと同じことをやって、ほらいつもと同じ結果になったでしょう。

求めているのはこれか?
必要な行為だ。必要な対処だ。必要な時においては。
これをずっと必要とされる状況にいるのか?

ずっと同じことを繰り返すのか?いつまでもおなじことを?
そりゃ安定だろうが、面白いか?

ああそんなつまらないことなんか全部投げ捨てて誰かになんかされてえーーーー不利益がない程度にいい感じに転がされてぇーーー自分で何にも考えなくて考えるのは推しのことと同人誌のこととそれから旅行のこととカメラのことと映画のことと音楽のことと、つまり表現するためのインプットとアウトプットのことだけ考えて生きていたい。

息がしたい。
反復横跳びだって疲れるし息が上がる。

わかるか、わかるかお前のことだぞ。私とかいう病じゃないのか、とか偉そうにいってた10分くらい前のお前だ。
ふざけんな、生きろ。

お前を生きろ。ちゃんととかないから。正しいとかないから。安心して、生きろ。

、この、ちゃんとという概念が、合わないんだろうな。

自分の中の理想が、高すぎて、あまりに完璧すぎて、そこへ行こうとするとどうしたってどうにもできない。
なんにもできないことになる。

この、0か1かみたいな極端な思考が、だめなんだろうな。

お前のことは否定したい。大筋を、愛せるようになりたい。ぼんやりした八割、みたいなもの。

この世は花束みたいにある一種の完璧をまとって物事を差し出さないから、差し出された植木が好みでないもっさりしたなにかだったとして、だったら、剪定する技術がほしい。
もしどういても、手持ちの鋏がその枝葉を切るのに適さないと思ったら、そっとしかるべき手段で次へ送りたい。

そうするにはどうしたらいいんだろう。

ろくすっぽ苦労もしてないから、しんどいだけはしんどいという当事者の気持ちだけが浮いていて、やっぱり経歴がないことになる。
しんどい経験なんて微塵もしたくない。

人生順風満帆で、可能な限り穏やかに生きていたいという普遍的な願い。

私の海を荒らさないでくれ。
私の凪を乱さないでくれ。

これを守り切るとなるともう閉じこもる以外にないんだろうけどそれはそれで飽きてくる。
わがままか。わがままだ。この中途半端でどうしようもない魂のやり場を、どうにも見つけられない。

やりたいことをかいつまんでそこそこで身につけた気になって新しいものは受け入れるのに時間がかかってそれでもなんとか折り合いつけて生きてきた。

もういっそ、いっそ全部、投げやってしまいたいけどそれなりの愛着がどうしても邪魔をして、変化を嫌う己のどこかがどうしても邪魔をして、今日も、同じことをしている。

魂の、ありかは、どこだ。

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裏参道
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