誰も見ていないは嘘だし、事実でもある。
「あなたのことは誰も見ていない(から思いっきりやれ)」という説、確かに一理あると思っている。
結構な自意識過剰で生きてきているので、すれ違った複数人組のさざめく笑いは、もれなく己の外見的なにかを笑われていると思っている。
この辺りは語り出すと長くなるので、それはそれとして。
以前、自分の表現したものに対してだけはせめて自信を持っておきたい、とnoteに書いた。
なんだかんだ、現時点であのnoteが一番「スキ!」をいただけているので、汎用性のある心持ちの話なのだろうなとは思っている。
翻って今回の結論、「自分の成果物を他人に見せる時のあのとんでもない心理上のハードルと、覆してこんちくしょうにたどり着くまでのしんどさ」です。弱音を吐いている。
普段からTwitterで個人の妄想をわめき散らしているのに、それをひとさまに見せられないとは何事だ、と思われるかもしれない。
だが、ことは簡単ではないのだ。
まず、主にジャンルが「擬人化」である以上、一定数そのジャンルそのものを苦手とする人間がいる。
※全てにおいて一定数受け付けない人間の存在はありますが、話の都合で主ジャンルの「擬人化」に限定します。
そこに重ねて、恐らくこれは幼少の頃の経験によるものだが、いわゆる「マンガ絵」(という括りも雑だな……)であること。
何が悪い、と思われるかもしれないが、周囲にそれを馬鹿にするような風潮がある一定あったのだ。ゆえに、「同類ではない」可能性がある人間に対して絵を見せることが限りなく苦手だ。
少なくとも住居を独立させた後に嗜み始めた短歌や写真は、何の気兼ねもなく見せることができる。
だから恐らく絵だけ、それも絵画風ではなくいつも描いているような方の絵、については少なくとも「同類である」という前提がない限りひとさまに気兼ねなく見せることができない。
何を言いたいのかよくわからなくなってきたし、決して幼少時の周囲のせいであると言いたいわけでもない。
ただただ、どうしても、心に壁ができてしまう。これの原因は何なのだろう、どう対処すればいいのだろう。
臆病で小心であるというだけだろうか。
成果物を見せろ、という。当たり前だ。必要とされるのが技量であるならば、その技量の上に成り立つ成果物を見せないことには始まらない。
どうしても勇気が出ない。何かしら、己の中の大事なものが、傷つけられる気がする。
なぜかはわからない。どうしていいかもわからない。そのためのカモフラージュ用のものも、確かに己の成果物ではあるのだろうけど、ひた隠している分なにかが辛い。
初対面の人間に、嫌われたところでどうなるのだ。
相手はきっと2時間後には忘れている。そうでないなら、覚えていられたというならば、それは何か己の成果物にそれだけのものがあったという評価だ。
力技ポジティブで、理論はわかる。理屈は組み立てることができる。
だがどうしても、一歩、踏み出すのがしんどい。
本当はそこまで考えていないのだ。
目の前の物事を面白くなりそう、という感覚だけで泳ぎきっているのだ。深く考えていないのだ、あんまり。
求めないでくれ、忘れてくれ、こっちを見ないでくれ、それで評価しないでくれ。本当の己は、何にもないんだ。
もう本当に給与口座を宗谷募金口座に指定できたらそれでいい。生きて、生きて、生きて、推しを生かしたい。
変わることはストレスだ。ものすごいストレスだ。
「誰も見ていない」なんて嘘だ、今まさに対面で見られている。見られようとしている。そこは戦場だ。
誰も見ていなくても、人知れず傷つくこととは別だ。
誰が見ていなくても、私が勝手に転んで怪我をすることは事実だ。
生きていたい。明日も生きていたい。死ぬ気はないし、暇もないけど。
あしたもまだ、好きでいたい。己の好きなものを、好きでいたい。
完全に、自分で決めた舵取りにがんじがらめで、自業自得なのですけども。
しんどい分だけ推しが輝くシステムがあればいいのに。
情緒の振れ幅はとりあえず気圧のせいにして、明日も生きます。明後日も。その先も。
気圧も天気も気の毒だ、いつも責任転嫁をされて。
いただいたサポートは、まとまった金額になり次第、宗谷募金へ流し込みに行きます。ありがとうございます、推しが潤います。