無関心による敬意の払い方。
他人に適用するにはいろいろと誤解を解く、あるいは防ぐための前置きに注力が必要すぎてそうそう滅多なことが言えない世の中ではあまり大きな声で言ったことはない真理だけれど、己自身を適正に保つためにこれ以上のシンプルな回答がなかったのだ。
あくまで己基準の話で。
愛情の反対は無関心である、とどなたかがおっしゃるが、まさにそれは絶対の正しさを持っている。
感情の動く要因はまず興味があって関心があって初めて目に入り耳に聞こえ、やあやあこれなるはと名乗りを上げてくる。
遠からんものは音に聞け、近くばよって目にも見よとはよく言ったものだ。
だが現代の戦場でこの名乗りはカナル型イヤホンにでも防がれてスマホを見つめる人間の耳には届くまい。
聞き流されていれば、あげた首級も本人も報われない。
この真理をどう己に適用するかというと、要するに自意識過剰な人間の自意識をうまいこと薄めるベクトルに利用する。
「誰もお前を見ていない」というあれである。
要するに慣れの問題と一度自分自身の大事だと思っているものから手を離す感覚、それから手を離した結果、手近なところに置いておけばわりと平気である、という感覚の習得を成功体験として得るために必要な訓練を表す言葉なんだけれども、かといってすぐそれだけ聞いて実践できるかというとそうではない。
で、ここに無関心が効いてくる。
そも自意識過剰な人間は裏を返せば自分に対して期待しすぎている。
「(本当はこんなことやってああやってこうして理想の輝かしい自分が手に入るんだけどそれをしない)自分のことを誰かが笑っている気がする」である。
カッコの中の方が長すぎてもう面倒くさい。再三言うが今書いているのはこの文章を書いている人間のことである。
図星だと思ったあなたはいまがチャンス。興味を失え、そこにだけ。
ただこれに伴うリスクというのは十分承知の上でいて、日常の中でものすごく小さな成功を積み重ねてきた上でさらにそれを手放した後、自分が平気でいるための別の軸みたいなものを確固として用意しておかねばならないので安易に勧めはしない。
ただ、ただし、今まで自分がどうにも譲れなくて、これを変えてしまったらどうなるかわからないから意固地になって頑なにそれを死守することにも本当はもう疲れているなら、なんとなく毎日の中で意識しておくといいことではある。
たまたま私はいろいろなことが相まっていい方向に働いた。
周りの人に迷惑かけながら救われながら環境自体にもがき苦しみながらたまに体調不良で倒れたりしながら生き抜いたので、今こうして程よい無関心を敬意の隣に置いて己の人生を生きている。
ポジティブ思考も訓練による慣れの属性を持つので、こういう思考回路自体の慣れさせは常日頃からやっておくと何かとのちのちいい感じに働いてくるのでおすすめです。
といっても具体的な手法については一切合切、個人的なところによるので、うまいことお伝えできないのだけれど。
自分を甘やかすことと、自分を大切にすることの違いの話の時にも似たようなことを言った気がする。
あれがもっと素直な言葉になったのがこのnoteのような気がする。
そういう意味では何もかも変わっていないし、そうじゃない意味では大幅に変化があったと言える。
物は言いよう。今の己を手放せ我ら。くっつくだけが正義じゃないぜ。たまに離れてみようじゃないか。
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