なぜ部屋の掃除をしたくなるのか。
突然だが同人活動をやっているので、今このnoteを書いている時間があるなら一本でも多くの線を引く方が、より達成に近づく時期である。
それはそれとして己の時間の使い方の話なので一旦置いておくが、例によって例による、部屋の掃除のしたさである。
学生のころは試験前と課題提出締め切り前、卒業してからはもっぱら同人誌の締め切り前、もしくは己がやろうと思い立った色々な企画の締め切り前。
人は、部屋を掃除したがる。なぜだか他のことが捗る。しかも原稿へ向けるべき集中力を使い切るような深さと緻密さで、作業ができる。
この原因についてはもはや色々と推測や観察が交わされていると思うので、あえて深追いはしない。
ただ一度だけ「ああ、そうかこれだからか」と思った体験を語る。
特に今回は結論があってないような、そのままタイトルが結論になるような文章です。
以前、心身の均衡が崩れて人生そのものまで危うくした経歴については、いつぞやのnoteの通りである。
そこからやや若干上向いてきて、台所の皿洗いが手につくかつかないかのギリギリを生きていた時。
流しに積みあがる食器や最低限の調理器具を見て、どうしようもなくしんどいときに、不意に閃いた。
おそらくこれは普段、何かしらものを書いたり描いたりしている人にしか効かない呪文であろう。
だけれどその時のひらめきが、今でも身辺を最低限の清潔さで保てる秘訣のような気がしている。
「これ、この流し、描きたくねえなあ」
そう、作画コストである。
いまこの目の前の絶望が形になったような流し台、これを例えば背景描写用のコマとして描かねばならない、となった時。
皿がこんなに無造作に積み上がっているさまを描きたくない。
この放り投げられた箸の自由奔放さを、写真に撮ってトレスするとしても描きたくない。
なんでこことここで食器同士の輪郭線が交わるんだ、描きたくない。
表現において、限りなく手を抜きたがる脳みその本来の姿である。
この怠惰を最大限に力技でポジティブへ転用できた瞬間である。
「いやだいやだいやだ描きたくないこんな流し描きたくないうあああああいやだあああああ、ああああああうええええええ」
実際声に出しながらあっという間に片付いた。多分ちょっと泣いてた。
この考え方の効果は絶大で、作業に入る前に「想定する結果に向けては、これからこれだけの作業工程を経なければならない」という事前思考がまず省略できる。
もうなんでもいいから片付けるのだ。
手に取れ、洗え、洗いかごへ積め。これだけだ。脳みそが物事を最低限のシンプルさで理解して組み合わせる。
さらに、対象が例えば洗いかごではなくて畳めていない洗濯物などであっても通用する。
その上、逃げたい一心ではあれど実際に行動しているので、成功体験が得られる。
落ち込んでる時の成功体験の効能は言わずもがな素晴らしい。
これを繰り返して、できれば根底にある気持ちの明度そのものを上げていくようにしながら、徐々に徐々に習慣まで昇華すると最高である。
常に家中がそこそこの清潔さで(少なくとも人が常に呼べる)、余計なものは溜め込まず、この瞬間散らかっているものは、いずれ作画コストに耐えきれなくなり次第、適切な場所へ収納されていく。
文章表現でも使えるところがいい。
絵と文と両方をそれなりに使えると、たまにどちらかに偏った波がくるので、それに従うとなかなか絵を描かない時期なども生まれる。
その時は文章で描写しようとすると、やはりこれも表現コストのあまりの膨大さに「うええあああ、あああああ、うえ…おえっ」とか言いながら片付けられる。
少なくとも己の脳みそは、目に入ったものを逐一全て対象の名前を浮かべた上で認識しようとしている節がある。
それがない人には役に立たないライフハックだが、なんとなく伝わるような方でどうしても片付けができない、という時は思ってみてほしい。
と言っても一種の起爆剤程度でしかないので、効果のあるなしは人によるだろうけれど。
この経験を経てからは、締め切り前の片付け欲求に素直になることにしている。そうした方が部屋が綺麗でそこに余計な脳みその思考を割かなくて済んで、目の前の一つに集中できるのである。
参考までに、今まで写真から描き起こした船やらなんやらを掲載しておく。
これに比べたら皿洗いとか部屋の片付けとか、全然なんでもないはずなのだけど、こっちの方が基準なんだよなあ……。
自分でたまに、これを振り返ると「なんか、なんかすげえな……」と褒めたくなるので、その時は褒めます。