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好き勝手かいたものと、そこに至るまでの責任について。

ご存知の通り、根がネガティブを力技でポジティブに変換して、日々をなぎ倒して生きている。
たまに技を繰り出す力がなくて、おとなしい感じのnoteをちょいちょい挟んでいるが、大体は推しを推したい熱意によって成されている。

ネガティブの方向にも色々あるだろうから一概には言えないが、自身を振り返るにそれは己自身のことにも向いていて、つまり「自分なんて」の大前提が確固としてこびりついている。

早めに結論を言っておくと「対自分への自己評価がいかに低かろうと、推しを推すときは堂々としていたい気持ちについて」です。

Twitterで日々呼吸をしていると、「生きているだけで褒められたい」という欲求が端々を通り過ぎていくことがある。
確かに今日も生きているだけで褒められたい。甘やかされたい。不労所得で生きていきたい、余計な社会の通念みたいなものに煩わされたくない。

他にも溢れかえるそういった困難をなんとかどうにかやり過ごしたり乗り越えたり誤魔化したりして、今日も「一人の社会人」みたいな顔で生きているのだから、その労力に対して褒められたい。

こんな考えでいるので、翻って推しを推すときも「でもこんな文章なんかで、こんな漫画なんかで、惹かれるものがあるものか」とか思う。
昔はそんなことを思いながら、それでも楽しく同人誌を描いていたし、今も楽しく描いている一点においては全くなんの変わりもない。

でもなあ、言い訳になるんだよなあ。

推しを推したい気持ちには一点の隙もなく純粋にそれで殴りたい。人の心を、響かせたい。

元来怠け者で根がネガティブでそれを自覚しているがためにまだかろうじて社会に溶け込めているけれど、要するに根の部分は可能な限り手を抜いて生きていきたいのである。

だからこの脳みそという超次元的な器官は隙あらば手抜きの言い訳を探すし、手を抜きたがるし、楽して最高の成果を得たがる。
最高の成果への最短の効率化を図る、という意味でこの怠けたい心は大切なのだけれど、それをする前に手を抜いてしまうことがままある。

で、それって自分の作ったものに対して真摯じゃない、のはいいとして推しに対しての真摯さも失ってないか?と思うわけです。

そりゃあもう口から飛び出す言葉以外にこうして半永久的に残るであろうWebの海に言葉を日々放つくらいには好きだよ。
できればなんの誤解もバイアスも右も左も真ん中もなく、ただただそこにあるものとして推しを認識されたいよ。
超能力者じゃないから言いたいことは言わなければ伝わらないんだよ。だから何かしら、わめいているよ。

その気持ちを手探りで文字に起こしたり絵に描いたりするとき、その過程に手を抜けば抜いた分だけ、それを見ている自分の中から熱意が最悪な気持ちを伴って失われていくのである。
言葉は悪いし、平素こういう物言いはしないが、実にクソみたいな気分ですよ。

何よりそれを許容した己に対しての嫌悪がものすごい。
おまえどんだけ怠けたいのか。お前の推しはもう、その作品の対象とされて世に出るとき、お前の怠けとかいうこの世で一番くだらないフィルタを通して世に出ているんだ。誰にわかるわけでもないけど、この世でお前だけが知っているだろ。

言い訳の隙を与えるな、そいつだけは駆逐しなきゃいけない。

ということにしばらく前に気がついたので、最近は照れとか謙遜とか自己否定したさとか、そういう気持ちはもちろん起きるけれども、せめて自分の残した言葉や作品に対しては堂々としていようと思った。
私は次の瞬間、この指先で打つ文字の一つにも、母音にも子音にも、それは口頭で発する音であろうとも、推しに関しては堂々と推したいと思った。

きっかけなどなんでもいいのだ。私の書いた文章やら、作成した同人誌やら、他のメディアやらなんやら、なんでもいい。
そこから誰かが推しを認識してくれて、その人の人生に一度でいい、その名前を呼んでくれたら最高だ。

その最高の状況に至るきっかけがもしも己であったとき、じゃあ、徹頭徹尾どこまでもなんの後ろめたさもなく、「いいよね」って言いたい。
それいいよね、って言いたい。私も好きだよ、いいよね、って言いたい。隣でも、遠くからでも、大体はディスプレイ越しだけども。

そのために、せめてそのきっかけとなりそうな推しについての語りをするときくらい、自分基準で堂々としていたいじゃないか。

方法は簡単で、推しに誠実であること。

それだけで言葉の選び方、ほかを無意識に下げていないか、余計なことを言っていないか、話が大きくそれていないか、ネガティブなことを言っていないか、全部考えが及ぶ。
これはあくまで私が推しに対して堂々としていられるか、というだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。

今まで出した同人誌に調査不足の誤りがあったり、技術に対して伸び代がチャレンジャー海溝並みにあったとしても、「こんな話で」とか絶対に言わない。

自分に自身を持つのではなくて、自分が自分の推しを語る際の表現方法に、少なくとも自身を持つこと。
言葉で言うのは簡単で、実施するのも簡単で、あとは心の持ちよう、ここが一番難しいのだけれども。

今日もそうやって、ひたすら楽しく生きていたい。

見遣れ、推しは輝いている。

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