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好きなものを語る時安易な言葉に逃げないということについて。

好きなものを明確な言葉で、それに相対したときに感じる全てを的確な言葉で言い表すのは、難しい。
何回同じことを言うのかと思われるだろうが、何回同じことを言おうが全くもってその難しさは目減りしない。

「言葉を友人に持ちたい」と寺山修司が言った。
その前後の文章も確かに読んで非常に納得を得たのだけれど、詳細は忘れてしまってこの短い部分だけが残っている。
これを独自に解釈するのであれば、「言葉に誠実であれば割といいところまでいける」ということになると思う、が今回の結論です。

言うまでもなく感情は言語化するのに少なくとも私向けには最適化されていなくて、日々なんとか手探りでそれにふさわしい言葉を自分が持てる中から探し出して、引っ張り出して、その日の服を決めるように照らし合わせて及第点で世に出していく。
もちろん完璧にそのコーディネートを決められる人もいれば、簡単な言葉に当てはめて繰り返し繰り返し同じ単語で近いものを表す人もいる。
その反復を意識的にやるのでないと言う意味で私は後者です。「待って無理好き……………」の繰り返しだ。

だからと言って、その好きの感情全てを安易な言葉で口走り続けることが停滞の一種であることは明白で、いつもこの感情の正中を射抜く言表しを見つけるのに苦労するのだけれども。
だけれどもたまに、脳内の言葉の海、可視化されていないふんわりした透明の波の感覚の中で、「このへん」という漠然とした領域が「今まさに言いたいこと」であるとわかる時がある。

それをうまく捕まえるために必死になるのだが、だいたいそう言う領域を感知するのは他のことを話している時なので、大変に難しい。
感覚で言うと眉間のやや右目寄り、1時方向くらいにふわっと他よりも固まっている部分を感じる。
面白いことにこれはいつも同じ場所がそう言う感覚を生んで、もしかしたら脳みそのその部分を使っているのかもしれないけれど、さすがに真偽はわからない。

きっとその時、常日頃から言葉そのものに誠実であって、正しく握手ができて、小粋なジョークの一つでも飛ばせるような関係性であれば、すぐにいつものように手を伸ばして捕まえるのではなく手元まで失礼のないように招いて、己の言葉として世に送り出すことができるのではないかと思う。

この大海を泳ぎ切った時、何一つ新しい言葉でその愛を語ることができなくても、少なくとも海から上がった時点で己に確かな経験値は積まれている。

言葉は一つのツールだから、使い方一つでなんとでもできる。
日々の手入れが必要だし、どうにかなってしまった時は修理が必要だし、替えのパーツは日々新しくどこかで生まれた言い回しが次から次へと流れてくる。
大量生産の言葉たちは、それでもいずれ流行したものとして歴史にページを増やしていく。そうでない言葉たちは、誰かの心にいつまでも深く残り続ける。

これを書いているいま、右目の前あたりには安易も感じないけれども、頭の中の上半分くらいが全体的にぼんやりしているので、素直な言葉であることは間違いない。
気取らず、肩の力を抜いて、格好つけないで、全部曝け出すようにキーボードを打っている。

昨日はやっぱり熱を出した。それでも何度もキーを打つ。「記録する」という行為はもしかしたら、生き残るための手段であるかもしれない。
今日も世界が優しい。

​自分の身をよくよく振り返ってみたら個人誌と、webのお手伝いと、毎日のnoteと、全く別の自分内流行りジャンルの二次創作で思ったより手一杯でした。

入出力にめまぐるしい感じ、まさに生きてる。
これだから人生はやめられないのである。

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