【学科】都営高輪アパート(用途/集合住宅)
前回からの続き【建築作品を学ぼう♪】シリーズ
今回は,戦後,焼け野原となった東京での団地誕生ストーリー.
その先駆けとなった都営高輪アパート.
■解説
~↓↓↓1分で解説!YouTubeショート動画↓↓↓~
●都営高輪アパート(1947年/昭和22年)
太平洋戦争(1945年)による深刻な住宅不足を背景に,終戦後初の公営集合住宅,いわゆる団地として計画された.戦後,焼け野原となった東京において,資金もなく,建築資材の確保すらままならない状況の中,これからの日本の団地モデルを実現させるべく,住宅の不燃化にこだわった鉄筋コンクリート造が目指された.
これには,苛烈な反発があった.鉄筋コンクリート造は,木造の数倍ものコストがかかるからだ.焼け野原となった東京の住宅供給問題について,質よりも量(=1住戸でも多くの大量供給)という意見が多数派を占める中で,最終的に,量よりも質が優先することに決めた.
とは言え,当時の日本は敗戦国としてGHQ(アメリカ)の支配下にあり,建設資材となる鉄やセメント等は,GHQから特別に配給してもらわねばならない.使用するコンクリート量を最小限に絞るため,庇などは取っ払われ,ラーメン構造でなく,壁構造という前例のない工法が採用された.使用するコンクリート量の節約,施工の簡素化,柱の無い間取りを可能とするためだ.
こうして,戦後初のRC造集合住宅が焼け野原に建ちあがった.
また,様々な社会階層,家族構成の世帯を入居させて各種の生活調査もこの
高輪アパートで行われた.このアパートの成功をきっかけとして,鉄筋コンクリート造の団地が大量供給されるようになる.木造住宅が密集していた時代に比べて,大幅に不燃率を向上させることができた.現在は解体され,建て替えられている.
住戸は,6畳と8畳の2つの居間,台所と洗面,便所という間取りとなっている.初期の同潤会アパート(コチラ)の住戸面積が6畳と4畳半の28㎡(8.5坪)だったことと比べると,一回り大きい39.5㎡(11.9坪)の広さがある.
実験的に2戸だけ,洋室を設けた洋間プラン(↑図)もつくられた.これらのプランが51C型(コチラ)へと進化していく.
■学科試験ではどう問われる?
平成3年(1991年)の一級建築士「学科」試験で問われた知識です↓
【解答】〇
■まとめ【サマリーキーワード】
●都営高輪アパート(1947年)
✅戦後初のRC造公営集合住宅
✅壁構造で柱の無い間取り
✅不燃率の向上
■建物概要(製図試験対策用)
●都営高輪アパート(1947年)
【建 物 名】都営高輪アパート
【竣 工】1947年
【階 数】地上4階建て
【構 造】鉄筋コンクリート造
今回は以上です♪
次の建築作品へ続く.
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