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【学科】都営高輪アパート(用途/集合住宅)
前回からの続き【建築作品を学ぼう♪】シリーズ
今回は,戦後,焼け野原となった東京での団地誕生ストーリー.
その先駆けとなった都営高輪アパート.
【時代背景】
1923年 関東大震災(マグニチュード7.9)
1945年 3月10 東京大空襲 都内の1/4の建物が破壊され,
100万人以上が家を焼き出された.
1945年 8月6日 広島に原爆が投下
1945年 8月15日 終戦
1955年 終戦からたったの10年で戦前の経済水準に回復
1956年 もはや戦後ではない(経済白書に記載された流行語)
1964年 東京オリンピック(有色人種の国で初の開催)
同時に,東海道新幹線(東京〜新大阪)の開通
→終戦からたったの19年で,オリンピックと世界初の高速鉄道を実現.
上記1954年〜1973年までを高度経済成長期という.
・新しい工場が次々に建設され,国家規模で生産量が増加.
・洗濯機,白黒テレビ,冷蔵庫の三種の神器が各家庭へ普及.
・国民の暮らしは便利になり,豊かになっていく.
・年平均10%前後の高水準の経済成長率.
・国内総生産がアメリカに次いで世界第2位の経済大国へと躍進.
■解説
~↓↓↓1分で解説!YouTubeショート動画↓↓↓~
●都営高輪アパート(1947年/昭和22年)
太平洋戦争(1945年)による深刻な住宅不足を背景に,終戦後初の公営集合住宅,いわゆる団地として計画された.戦後,焼け野原となった東京において,資金もなく,建築資材の確保すらままならない状況の中,これからの日本の団地モデルを実現させるべく,住宅の不燃化にこだわった鉄筋コンクリート造が目指された.
これには,苛烈な反発があった.鉄筋コンクリート造は,木造の数倍ものコストがかかるからだ.焼け野原となった東京の住宅供給問題について,質よりも量(=1住戸でも多くの大量供給)という意見が多数派を占める中で,最終的に,量よりも質が優先することに決めた.
とは言え,当時の日本は敗戦国としてGHQ(アメリカ)の支配下にあり,建設資材となる鉄やセメント等は,GHQから特別に配給してもらわねばならない.使用するコンクリート量を最小限に絞るため,庇などは取っ払われ,ラーメン構造でなく,壁構造という前例のない工法が採用された.使用するコンクリート量の節約,施工の簡素化,柱の無い間取りを可能とするためだ.
こうして,戦後初のRC造集合住宅が焼け野原に建ちあがった.
また,様々な社会階層,家族構成の世帯を入居させて各種の生活調査もこの
高輪アパートで行われた.このアパートの成功をきっかけとして,鉄筋コンクリート造の団地が大量供給されるようになる.木造住宅が密集していた時代に比べて,大幅に不燃率を向上させることができた.現在は解体され,建て替えられている.
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住戸は,6畳と8畳の2つの居間,台所と洗面,便所という間取りとなっている.初期の同潤会アパート(コチラ)の住戸面積が6畳と4畳半の28㎡(8.5坪)だったことと比べると,一回り大きい39.5㎡(11.9坪)の広さがある.
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実験的に2戸だけ,洋室を設けた洋間プラン(↑図)もつくられた.これらのプランが51C型(コチラ)へと進化していく.
■学科試験ではどう問われる?
平成3年(1991年)の一級建築士「学科」試験で問われた知識です↓
【計画問題コードh03252】正しい記述かどうか?
東京都高輪アパートは,第二次世界大戦後初の本格的な鉄筋コンクリート造の公営集合住宅である.
【解答】〇
■まとめ【サマリーキーワード】
●都営高輪アパート(1947年)
✅戦後初のRC造公営集合住宅
✅壁構造で柱の無い間取り
✅不燃率の向上
■建物概要(製図試験対策用)
●都営高輪アパート(1947年)
【建 物 名】都営高輪アパート
【竣 工】1947年
【階 数】地上4階建て
【構 造】鉄筋コンクリート造
今回は以上です♪
次の建築作品へ続く.