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故郷にて⑩

 思ったより好かれていることも、思ったより好かれていないこともある。しかしそれらも結局、感じ方の問題で、全ては自分勝手な思い込みでしかないのかもしれない。

 人間関係で難しいと思うのは、相手の気持ちを100%理解できることがない以上、正解がない、ということ。相手が自分のことを好きか嫌いか、苦手かそうでもないか、心地いいと思っているかいないか、そういうことは、絶対にわからない。予測することはできても、正確に理解することは、できない。

 相手の反応や言葉、態度から判断するしかない相手の真意は、自己解釈という自分の形をしたフィルターを通してしか考えられない。自分の解釈が絶対だと規定してしまうと、とんでもない間違いを招く。これまでの29年の人生の中で、人間関係上で私がやらかした失敗の9割がこの「間違い」、「勘違い」のせいだと思う。嫉妬や劣等感、自分の生き方ややり方が、相手の行動、言動に対する正しい理解を妨げる。そして、この自分勝手な解釈が、相手から悪意や害意、敵意、無関心、軽視を読み取ってしまった時に、過剰な反応を起こしてしまう。

 こういう対人関係の「後悔」は、本当に取り返しがつかない。
どれだけ願っても、相手は戻って来ないし、過去を修正することもできない。相手に謝っても、それは自己満足にしかならない。相手のために本当にできることは、「関係を絶つ」以外にない。

 だからこの手の失敗をするたびに毎回思う。相手が自分をどう思っているかは、自分の持つ厄介なフィルターを通してしか判断ができない、相手は思っているよりも私のことなぞ考えてはいないのだ、ということを、忘れずにいたい、と。そして毎回うっかり忘れてしまう。相手に勝手にもりもりの好意を期待して失望することもあれば、相手の好意の量を見誤って罪悪感を抱くこともある。いつになれば、自分勝手な思い込みから多少でも脱出できるのだろうか。

 自分が他人の真意わからずで苦しんだから、私はわかりやすい人間でいよう、と決めている。決めなくてもわかりやすい人間であることに変わりはないが、よりわかりやすくいようと思っている。ただ、結局は相手にもフィルターがある。意のないところに意を読み取られることが多いし、悪意のある解釈をされることもある。馬鹿なだけ、愚かなだけ、何も考えていないだけなのになあ、と悲しくなる。そんないちいち負の感情を抱いていたら疲れる。疲れることはしたくない。

 好意など陽の感情以外は、感じた瞬間にストレートに言うことで発散するか、黙るかする。そうしないと、相手を傷つけて、結果として自分も傷つけてしまうと、これまでの経験の中で気が付いたから。健全な関係を築くには、すぐに相手に打ち明けることが何よりも大切だと思う。築けない相手なら、黙って諦めるしかない。

 人生の残り時間が少なくなっていく中で、ますます思う。
悪意よりも、好意を発信できる人間でありたい、そうあろう、と。他人がどうであれ、それに関係なくありたい自分であろう、と。そのたびに、人間関係でいまだに傷ついてぐらぐらする自分に悲しくなる。難しいなあ。一生かけて揺らがない自分を築き上げられたらいいな、そしてその先で、願わくば三人くらい、安心して好意、尊敬を感じ合える友達か家族がいたらいいな、なんて思う。贅沢者である。

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