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"怪物"と生きる

誰の心にも「怪物」がいる。表面的な事実からは、本当のことは分からない。その「怪物」に気づいたら、退治しなければならない。
本作を見た人は、そのようなメッセージを受け取るだろう。だが、その「怪物」は、狩らなければいけないほど、悪いものなのだろうか。
(以下、内容のネタバレを含みます)

本作において、一連の事件に当事者性を持つのは、湊、依里、保利の3人だ。死を意識するほど深く関わった犠牲者だ。

湊は、新しい自我を発見することで、もう以前のように、みんなと同じようには笑えなくなった。突然発生した、もやもやとした苦しさの原因がわからない。疑問に応えてくれる大人がおらず、どう乗り越えれば良いのかを模索していた。シングルマザーである早織に負担をかけたくないという優しさと、期待を裏切ってしまうのではないかという恐怖から、素直に相談できない。11歳という年齢は、心身が大きく変化するため、異性の親との距離感に最も悩む時期でもある。

依里は、湊より一足早く新しい自我に気付き、それを隠しながら生きていくと決めた。笑顔を絶やさず、人に深く介入しないというやり方で、親やいじめっ子に対応してきた。だが、その態度が、子供らしくなく生意気にうつることから、家庭でも学校でも酷い扱いを受ける。本当はもっと仲良くしたい湊とも、みんなの前では話かけないという約束ができる我慢強さがある。やはり、相談者としての母親の不在が影を落としている。

保利は、教師になったものの、教えることに情熱を持っているわけではない。正しさに執着する自身の趣向に、最も適性を感じた職業が、教師であっただけなのだろう。だから早織からのクレームへの対応にも、自身がシングルマザーに育てられた経験を重ね、過保護であることを非難するかのような不用意な言葉を返してしまう。それは、同様の環境で育てられた自分が、教職につけるまでに、正しく努力をしたという自信が、無意識のうちにあったのだろう。人ではなく出版物を規範にするかのように、誤植の発見に正義を見出し、社会的な正しさを求める。彼の言動は、恋人の期待にも応えきれておらず、世間からズレていることに無自覚である。

この三人は、互いに孤独ではあるが、一歩踏め出せば、理解し支え合える状態にあったはずだ。だが、子供二人が先に結びつき、早急に結論を求めて行動してしまったことが悲劇になった。

子どもの時は、経済的にも社会的にも、生活圏が狭く息苦しい。精神的に早熟で、その成長に身体環境がついてこれなかった時、そのズレが心身を蝕む。まだ外の世界とつながれない子どもは、親や先生しか、参考となる大人が身近にいない。望ましくないマッチングのズレを、自ら修正する方法が少ないのだ。義務教育と日々の強制イベントの下では、ゆっくりと考える時間も空間も、確保するのが大変だ。アルバイトが可能になり、外部の大人と接し、お金を稼げるようになる年齢まで、生き延びなければならない。

そうした不安定な子ども時代を生き抜いて、一足早く大人になったサバイバーは、次代の社会が、少しでも生きやすくなるために、礎を築かなければならない。今回のケースでは、保利の役目だ。自分の症状を、うまく言語化出来ない子どもたちのための、先駆者であり通訳者となるべきだった。今の狭い社会ではひとりぼっちでも、受け入れてくれる世界が外にあることに気づくまで、見守ってあげるべきだろう。だが、保利は、その試練をくぐり抜けることなく、大きな壁にぶつかることなく大人になり、コミュニケーション能力に欠けていた。他人の心を理解するのは、親族でも難しい。だが、理解しようという優しさがあれば、何かしらの影響を与えることはできたはずだ。

湊と依里は、是枝作品の、社会問題の犠牲になった子供として登場するキャラクターだ。過去に「誰も知らない」「万引き家族」「ベイビー・ブローカー」など、困難を背負わされた社会弱者としての子供たちを通して、社会課題を観客に投げかける作品を多く作っている。

対して、保利は、坂元裕二の脚本世界にたびたび登場するタイプの男性キャラクターだ。『初恋の悪魔』の林遣都、『大豆田とわ子と三人の元夫』の岡田将生、『カルテット』の高橋一生につながる。他者と違うユニークさを、持て余しながら生きている。「怪物」となる一歩手前の状態で、踏みとどまっている。人として不完全であることを、自覚しながら生きている姿は、誠実だともいえる。 自分の居場所をつくるには、他者と生活圏を共有し、理解できない者の行動を認める必要があり、人間的な優しさにつながる。
人生を斜に構え、自分しか気に留めないルールで、日常に隠れた小さな発見を探して悦に入る。誰とも分かり合えない疎外感を感じながらも、適合を望み、成長を願う成人男性が、坂元の書く物語に奥行きを加え、主人公を脇から支える重要な役割を果たすことが多い。

保利が、過去のキャラクターと違うのは、小学校の先生であることだ。警察官や、弁護士や、音楽家は、他人との距離をコントロールしやすい職業だった。だが教師であることがそれを許さず、本来、その枷が、本作を別の次元へと引き上げる可能性があった。
坂元裕二は、今までは、不完全な大人たちの社会的な成長が、物語となっていた。彼らのズレた言動に、少年のような誠実さと現実社会のギャップに気付かされる場面は多く、それが魅力であった。今後、是枝監督が得意とする、日常に潜む社会課題を子どもたちに語らせる手法と、坂元裕二が言葉遊びをさせる、社会コミュニケーションが苦手な怪物に成長した大人の出会いが、新しい化学反応をおこすのではないかと期待する。それを除いても、本作は傑作ではあるのだが。

校長先生の『誰でも手に入るものを幸せっていうの』という言葉は、重要ではあるが響かなかった。こんな大きな主語で語ってしまっては、まだ狭い世界しか見えていない、11歳の湊には届かないだろう。その誰かに自分がなれるか分からないから、悩みが尽きないのだ。大人がしたり顔で正論を言えば、自分は楽になるかもしれないが、それでは教師失格だろう。自分の認識と取り巻く社会の正論とのギャップに悩む子供たちに、一般論で説いてはいけない。

自分の中に眠る「怪物」を、狩るだけが解決策ではない。手懐けて、乗りこなし、武器にする方法があることも予習するのだ。「怪物」は、マイノリティが持つ個性でもある。本物の「怪物」を飼う者は、居場所を見つけられなければ、生きていけない。
身も蓋もない言い方に聞こえるかも知れないが、経済力が、多くの問題を解決する。大人になって、知見を広め、金を稼げるようになれば、生存確率は飛躍的に上がる。戦うための牙を持つのだ。

たった一本の作品が、社会の仕組みや悩みを抱える人の人生を、決定的に変えることはない。それでもたくさんの球を投げなければ、必要としている人がいる場所には届かない。
フィクションの世界で出会う「怪物」は、予行練習だ。人生を教えてくれる大人が周囲にいない時でも、現実の世界に「怪物」が現れた時、どう対応すれば良いのか、ヒントを示してくれる。だから様々なメディアを使って、小さくてもちゃんと傷つけて、誠実に語りかける必要がある。娯楽作品は、心を治療するが、社会派作品は、心を予防する。

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