明日のたりないふたり

僕もまた、自分の話しかすることができない。

たりないことを自覚することは、ある種の逃げであると思う。

「自分はたりていない人間だから」という言うことによって、生きやすくなる理由を作っている。

たりていない部分を笑いにすることで、ありのままに近い自分を受け入れてもらおうとしている。

一方で、真正面からたりないことに向き合うのは難しい。

矛盾しているようだけど、たりない部分をむやみやたらに肯定できるだけの強さはない。

大人というのは、社会というのは、たりていることを求めてくる。

でも、僕はきっとたりない。

たりない自分に酔っていたくはないから、たりている自分であろうとしている。

だけど、純粋にたりているとされる水準にどうしても達しないこともあるし、自分を苦しめてまでたりていようとは思わないから、いつまでもたりない。

たりているか否かは、主観的でもあるし、客観的でもある。

周りにとってたりていることでも、自分にとってはたりていないこともあって、逆もまた然り。

自分の中の世界と外の世界との狭間で、常に悩み続けている。

たりないふたりは、たりない自分を肯定してくれている気にさせてくれる。

でも、それを鵜呑みにしてたりないままで良いのかはわからないし、何も考えずに現状維持ではダメだろう。

決してたりない人間のままでいようとは思わない。

たりている人間を目指して、もがいて、もがいて、もがいた結果がたりないものだったとしても、それを肯定できる人間でいようと思う。

たりないふたりが繋ぎ、託したバトンを、この手で受け取りたい。

それが何なのかはわからないが、相応の資格が必要で、険しい道になるはずだ。

今はまだ明日のたりないふたりとして、悩み続けてみたい。

いつか今日を迎えた時に、願わくばたりている人間になっていることを夢見て。