オフライン飲み 希望します

形骸化する「さみしさ」

外的要因のために集団で制限される生活も3ヶ月近くが経とうとしている。見渡す限りの誰もがこの状況に辟易し、外に出られないことを嘆き、在宅勤務の終焉を望んでいる。

でもふと思うのだ。みんながこぞって「さみしい」というこの状況、もはやみんな同じ気持ちなのだからさみしいわけではないのでは?少なくとも、さみしい気持ちでつながっているという点ではあなたは一人ではない。つまり、「一人さみしい〜そろそろ人肌恋しい〜(笑)」などと自宅での酒盛り写真をインスタに載せている場合ではないのである。

そもそも本当に我々が一人なのは今に始まったことなのだろうか?この世に生まれ落ちて以来人間はみな一人ではなかったか?朝起きる瞬間、食事を口に運ぶ瞬間、通学通勤で駅に向かう瞬間、映画を見て感動する瞬間、運動で汗を流す瞬間、眠りにつく瞬間、たとえだれかがそばにいたとしても、食べる、目を覚ます、歩く、視聴覚から情報を得る、身体を動かす、睡眠する、それらの動作自体はすべて自分ひとりで完結していたのではないか?そういう意味では、この自粛期間などが始まるとっくの昔からいつだって一人だった。この先もみな一人である。恋人やパートナー、仲間や家族と2人以上でいるときだって、因数分解したらただのひとりの集まりでしかない。

では今更さみしさ(っぽいもの)を感じる(ような気がする)のはなぜだろうか。この生活で我々が恋しいなにかは「人肌」なんていうぐずついた言葉でくくられるものだろうか?いや違う、恋しいのは「今まであったもの」であり、さみしいのは「今まであったものが突如としてなくなる」という状況が演出する一種のエモさなのだなと思う。これから手に入れる漠然とした何かを想像するよりも、過去の記憶や経験を反芻するほうが圧倒的にエモいじゃん。

たとえばわたしが一番恋しいのは、かつての日常では普通だった対面の飲み会である。いつだって世界は「主流」と「主流以外のすベて」で分断される。今、主流になりつつあるのはオンライン飲みで、わたしがしたいのはその対にいる「オフライン飲み」である。


「オフライン飲み」に恋い焦がれ

オンライン飲みが開催され始めたころはその画期性に感動した。家お酒を飲んだ方が安上がりだし、遠くに住んでる友達とも話せるし、自分の都合ですぐ抜けられるし、終わったらすぐ眠れるし。とにかく新しいことをやっている感、にわたしのミーハー心は満たされた。

もちろんオンライン飲みは素晴らしい。一点の批判もしない。技術に感謝。しかしここで今一度、オフライン飲みのよさについても思い出してほしい。そして一緒にエモくなってほしい。思い出しながら書いてみる。


肘をつくたびに脚が揺れるテーブル、並んだ雑多で陳腐なつまみたち、氷でかさ増しされた薄いサワーのジョッキ、用済みの箸入れ、散乱するおしぼり、ラミネート加工の甲斐もないベタべタに手垢のついたA4のメニュー、家に帰れないと騒ぐタッチパネルのメニュー、ゴミを詰められたタバコの空き箱、トイレに出たくて言う「ちょっと前ごめんよ〜」、戻るとなくなっている席、ありふれた近況報告、いつかの暴露話、だれかの噂話、次第に大きくなる声、あぁ顔が熱い、ラストオーダーの機械音、きれいに割れない会計、水びたしのカバン、残飯かき込み勢を尻目に立ち上がるとふらつく足元、ぐらつく視界、「もう飲めない」「まだ飲みたい」の反復運動、座布団の下から見つかる靴箱の札、席に忘れられた財布、他人のiPhoneで勝手にする自撮り、待てども待てども満員のエレベーター、後続を待つ手持ち無沙汰な時間、外に出た瞬間に肺を満たす生ぬるい温度。

こういった愛すべき瞬間が、オフライン飲みには詰まってたね〜。(とめどないエモの洪水)

とかいって、どうせオフライン飲みの生活に戻ったら今度はオンライン飲みが恋しくなったりするんだろうね。わかってんだよそんなことは。隣の芝生はいつだって青い


出オチ、それもまた一興

ところでどうでもいいけど、箸入れには出オチって言葉がぴったりだよね。登場シーンが一番の役割で、箸が出されたらあとは何にも役立てない。たまに居酒屋で、箸入れだった紙切れを器用に折り箸置きとして使っている人みるけど、居酒屋にそんなお行儀は場違いだし。

こういう、本来の用途としては終わったものに別の価値を与える運動みたいなことの繰り返しをもうずっと何年もしてきている気がする。本質は変わらないのに、受け取る側次第でそれらがまた新しく生まれ変わりリユースされていくみたいな。

そんな自分のことが好きだなと新ためて思った日でした。(ほとんど毎日思ってるけど。汗)

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