『結婚の奴』が強烈だった話
始まりはいつも出来心から
能町みね子さんといえば、わたしにとっては「久保みねヒャダのこじらせナイト」である。
3月に行こうとしていた収録ライブがコロナの影響で中止になった。テレビで2019年年末に再放送されていた映像をみたこともあって、そのおもしろさに心打たれ参戦の機運が高まっていたため、次回開催のお知らせを見逃さないようにと能町さんのツイッターを出来心からフォローしたところから始まりこのブログを開設するに至った。もちろん、ご本人の目にいつか触れたらいいななんて下心も満載である。
わたしはなにか新しいものにふれ、それに対してなにかを言いたくなったときはいつも、①ツイッター(6人くらいしかフォロワーのいない鍵アカウント)に連投する、②自分の趣味嗜好をなんとなく知ってくれているはずの友人に長文ラインを、なんならいくつもの参考URLと一緒に送りつける。しかし今回は、鍵をかけたアカウントではなくだれでも歓迎の(≒だれがみているかわからない)状態で書いてみたかったので、わざわざnoteを立ち上げた次第である。
能町さんのツイッターを2月末頃フォローしてい以来、定期的にTLでみかけるようになった知らん人たちによる知らん人の書評や感想たち。特に読まずスルーしていたが、RTしているのが能町さんで、その対象がご自身の新著であると気づいたのが3月末。
なんとなく気になる気持ちが抑えられないので、とりあえず買った。数日経ってから読み始めた能町さんの著書『結婚の奴』が、最後までかなり衝撃的に強烈だったので、どこがそんなに響いたかを書きなぐることにしました。
※著作より多数引用させていただいておりますので未読の方はご注意ください!
抱腹絶倒な語り口
のっけから能町さんにおべっかを言っているようで心もとない。本音であるのだが、いかに本音であるかを説明しても虚無なのでその労力は削減させていただこうと思う。
まず冒頭、夫(仮)と暮らす家での複数回にわたる寝脱糞の経験に始まり、その原因であるミャンマーの伏線がのちに回収されたかと思えば、急に亀やバクなどの交尾動画の視聴を薦められる。今風にいうと、いちいちクセが強い(もう古いですか?)。
たまに混ぜられる口語も効いている。急に現実世界に無理やり引き戻される、メタ的な視点の的確で笑えるツッコミ。その対象のほとんどが自分という姿勢も好感しかない。特に不倫未遂のくだりはゲラゲラ笑いました。
それでも先方は「一生好きだよ」とどう考えてもその場の出まかせであろうことを平気で言ってくるし、腕枕するからここでいっしょに寝ようよとまで言い出した。(中略)結局この感じか、クソ、渇望していたつもりだったものがこれか、はっはー(…)。 『結婚の奴』p.243
また、特徴的だなと思ったのは、ページをめくる直前とめくった後ではおそろしく展開が変わったていたり、奇数ページの終わりの文章とは180°異なる意見が偶数ページの頭に書かれていたり。えっ!いま何が起きた?!と声に出しながらあわてて前ページに戻る。つまり能町さんは改ページの神である。
さらに、いつの間にかBBSで知り合ったやたらとキモい男性(ド失礼)と付き合うことになっている。なんで!?さっきまでめっちゃ拒否感あったじゃん?あれはどこいったんだよ!と、1年ぶりくらいに会った友人の突拍子もない近況報告に驚きついていけないながらも笑いだけが止まらないときの気持ちに似ていた(楽しい)。でもやっぱり相磯さんはキモかったな。
現実世界ではバグれない
とはいえ、わたしだって前略プロフィール全盛期のJCで、放課後にはゲスブにカキコしていた世代だ。たいして仲良くもない友人のリアル(雑にいうとツイッターみたいなもの)のパスワード4桁を「こういうのは好きな人(噂になっていた)の誕生日って相場が決まってんだよ」とダメ元で入力したらうっかり開いてしまい、投稿をのぞき見するという図らずも悪趣味なことになり「バグか?!」と焦りもした。その後もSNSの世界で自らの生活を記録しながら他人の生活をなんとなく見守り続け、大学生時代は数多のSNSを使いこなし、気づくとツイッターのアカウントは3つくらい、インスタのアカウントは5つくらいに増えていた。作ってもログインパスワードをすぐ忘れてしまうのでアカウントの正確は数は覚えていない。
社会人になって、たくさんの他人と話す機会が増えたのをいいことに、これなら今流行りのマッチングアプリで無双できるんじゃないか?と謎の自信が湧き、マッチングアプリで計10人以上と飲みに行ったこともある。よく知らない人間と数時間お酒を飲みながら話すのは案外楽しく2ヶ月くらいそんな生活をズルズルと続けてしまったが、ほぼ初対面の人と恋に落ちるほどうまいことバグれず(そのため全員ノーセックス)、結果的に自分のハリボテのコミュ力に無駄に磨きがかかっただけである。出会い系は向いていないことがわかった。
その点でも、能町さんは「通過儀礼」と自らを納得させ−−−それが汚部屋に住むだいぶ年上のフリーターだとしても−−−誰かしらと付き合うまでに至り1年もその生活を続けたのだから、やっぱりわたしとは格が違うんだなと思わざるを得ない。
最初の設定が大事っぽい
マッチングアプリなどというお膳立ては無理、合コンという出来レース感に身の毛がよだち、紹介という面子の立て合戦にも嫌気がさすわたしはどういった態度で男性と仲良くなってきたんだっけ?ほんのり振り返ることにする。じっくり振り返るとうまくいかなかった経験に再び殴られるので。過去には無抵抗である。
「コイツとは何も起こりえない、コイツがこれ以上迫ってくることはない」と、安心した状態で私と会話していただきたい。だから、私が男性に声をかけるときは同時に「あなたに対して恋愛感情など一つもありませんよ」という様子をなるべく分かりやすいように提示しないといけない。 『結婚の奴』p.37
これ。わたしもよくこのスタンスを取るのだ。打算的にきこえるかもしれないが、処世術として役に立つ場面も多い。特に、以降長い付き合いになりそうな人(会社の人、仕事関係者、サークルのメンバー、バイト仲間など)には直感的にこういう態度で話していると思う。実際、友人として男友達とでかけたり、夕食をたべたり、飲みに行ったり、ちょっとした遠出をしたりしている。健全にだ。ハリボテのコミュ力はここでも発揮される。
問題は、こう接してきた人のことをうっかり恋愛的な意味で好きになってしまうときである。ひょんなことをきっかけにそういう目でみはじめてしまうと、意識するのをもう止められない。山本リンダよろしく、盛り上がり半ば盲目的に距離感を詰めてしまうが、相手様は「どうした?俺ら友達だよね?2人で遊んでも何もないし、おれの恋バナもきいてくれるし」となるわけだ。そりゃそうだ、ぐうの音も出んわい。俺らなんでも話せるダチですから。
そうこうして(勝手に)焦らされている間に、こちらの昂ぶりも落ち着き、「なんであんなやつのこと好きだったんだっけ?別に金輪際会わなくても問題ないんだがワラ」となるのだ。この世には腐るほど素敵な人間がいるので、はやくまたイケてる人と知り合いたいな!と切り替わる。
人の気持ちには鮮度というものがあるとわたしは信じている。こと恋愛に限った話ではない。ずーっと続く感情なんてないんじゃないか?うーん、やっぱり色恋はダリーな。サボって屋上でもいこうぜ!
結婚が「良い」ってだれが決めたん?どこのローカルルール?
そもそもの感覚として、常識とされているものを一度疑う性格だ。この世で是とされているものはなにもかも、一度自分で理解したうえで常識として受け入れないと、まあ一言でいうと、マジで無理になる。
では、結婚はどうだろうか?単に恋愛の延長にあるものではない気がしている。好きだから結婚したいというのは当然!のような言説にはもうずっと前からうんざりだし、家父長色の濃ゆいイエ制度は断固拒否だ。レヴィ=ストロースをかじったときは、資本主義国家としては子供がいないと成り立たないのでご都合主義の結婚制度を「愛」ということにした!と曲解した挙げ句、わたしは勝手に結婚とそれによる「幸せ」というものに対してやや懐疑的になっている。結婚にありつけさえすれば、本当にそれは幸せなのか?
そこで能町さんの言葉である。自身が「憧れさえ抱いていた女友達」の口から例の呪詛が発せられたのをきいたとき、こう感じたという。
自分もさっさと男と恋愛しなきゃダメだ、と思った。それが私なりの世間へのおもねり方だと思ったのです。さっさと平凡な恋愛を済ませ、できることなら早めに結婚して、世間の代表格のこんな奴を出し抜き、世間に埋もれてしまいたい。 『結婚の奴』p.110
どちらかというとお花畑的思考ではなく、ネガティブな要因から推進される結婚への前のめりな姿勢である。
わたしはといえばつい先日、経緯は省くが(@友人各位 今度聞いてくれ)祖母に「もう結婚しなきゃいけない歳なのにね」と言われてすべてが無理になった。わたしはオメー含め自分以外の誰かのために人様を巻き込んで籍を入れるわけじゃねーんだよ!
と同時に、さっさと結婚しないと一生言われるんだろうな、これ。とも思った。人は一人で生きていけないと知っている人間にとっては、若いうちに異性と結婚することは常識なのであろう。いままで強く心がけてきたことではあるが、自分と異なる人や価値観に出会っても、常識を押し付ける人間になりたくないなと、小さく、そして強く、改めて誓った。
凝り固まってしまった常識を他人がテコ入れするのは難しい。ゆえに「世間の代表格」の典型例である人の辞書にある通り、わたしだって世間一般の人の仮面を手に入れてしまいたい。仮面がひとつでは退屈だろうから、あらゆるコミュニティに即した仮面をいくつも使い分けられたらいいな。たくさん持っているSNSのアカウントのように。
と、ここまで書いてみたものの、結局は広くあまねく降り注ぐよくある「ありふれた」話である。
ありふれた平凡な絶望とはつまり解決しようのない絶望だからありふれているのであり、考える作業は徒労でしかない。しかし、分かっていても徒労の穴から抜けられないのが一人の夜である。 『結婚の奴』p.76
このように、わたしはただの、ありふれたことにああだこうだ吠えているだけのありふれた存在である。ということをまたもや能町さんの言葉で思い知らされる。1人の夜でなくても、だれが隣で寝ていようとこうなるだろうが。
自分が抱える苦悩に根付く普遍性に関しては、尾崎世界観も痛快に曲にしている。「こうやってエイトビートに乗ってしまうありきたりな感情が恥ずかしい」(クリープハイプ『手』)、と。ありふれたわたしは深く共感する。そう、ありきたりは恥ずかしいのだ。ありきたりなところに安住している自分なんてダサい。あれ、じゃあありきたりな結婚なんて、わたし本当にしたいんだっけ?やっぱりこうなっちゃうなあ。
それでも僕はやってみたい
一方で、これを言うと精神分裂症を疑われるのだが、それでもわたしも結婚したい!と強く思うときもある。どちらかというと後ろ向きな、消去法的な、ヤレヤレ的な結婚意欲ではなく、素直に「結婚ていいな!ぜひしてみたい!」と思うときだ。20代半ば、周囲にはそれぞれのパートナーと紆余曲折を経て最終的には結婚をしている友人も存在する。彼らの話を聞くことは楽しいし穏やかな気分になるし素敵だと思うし、こちらも一言でいうとアゲである。
能町さんの結婚生活も同様に、楽しそうで穏やかな日常と言った様相である。わたしは、愛の名の下に、誰かのために、自分を変えることに強い抵抗があるので、能町さんのこういった自然体の姿がサムソンさんに受け入れられているのも、サムソンさんへの尊敬の念を失せることなく持ち続けていられるのもまた、羨ましい。本書の中で能町さんは、それでもこの結婚は「擬似」にすぎないことを繰り返し自嘲するが、以下の場面などは特に、いいなバロメーターが振り切れてしまう。
食事を買いに行くというのでついでに仕事部屋のLEDの電球を買ってきてほしいと頼んでみたところ、近くの商店街を探したけどやけに高いものしかないので買わなかった、という。こんなふうに、自分と同じところに住んでる人が、ある場所に行って、自分と違う考え方で何らかの判断をして戻ってくる。(中略)なんてこった。これが生活なのだ。 『結婚の奴』p.215
自分の生活のリズムやこだわりは据え置きで、仮であろうが夫という他人が断片的に介入することの心地よさたるや。とはいえ互いに依存や干渉しすぎることもなく、妬み嫉みによる愛憎劇もない。想像するだけでいいなあと思う。
あまりにも自然に何の変哲もなく凪いでいるので、いわゆる老夫婦って最終的にこうなるのでは?とさえ思う。だからありふれたパンピーが「普通の結婚」をしようが、恋愛対象にない2人がペアを組もうが、どうせ行き着くところは似たようなものなのではないだろうか。
有益なる「無駄な会話」や、眼前を横切る他人の物理的動きによって、消えてしまいたい気持ちに浸かってぬかるむ時間が強制的に平らかにされ、ぺっとりとした日常が展開される。そのための「結婚」なのだ。 『結婚の奴』 p.200
良すぎる。ここまでくるともはや擬似と本物の違いがわからなくなってくる。何がどうしたら本物の結婚なのでしょう?何を以って擬似・偽物と認定されてしまうのでしょうか?
また、映画『his』(2020年)では、近所に住むおじいさんの「誰かに会って、影響を受けるのが人生の醍醐味」だというせりふがある。いざ結婚となると互いの人生の近くにいられるため、否応なく永遠に関わり合うということらしい。最初に結婚のために決心をしてしまえばあとはある程度本人の意思とは関係なく、誰かのことをずっと目撃できる。同様に自分のことをずっと目撃されている。それってなんだかいいじゃないか。
自分を語ることの耐えられない重さ
ここまで、能町さんの『結婚の奴』のおもしろさについて思いの丈をぶつけてみた。なんでこんなにおもしろいんだろう?それは、ひとえに能町さんによる自分語りのうまさに起因しているのではないでしょうか。(それはそう)
わたしは普段、友人と話すときは自分についての基本情報はあらかじめ知ってもらっていることを前提にしているので、自らの身に降りかかった珍話についておもしろおかしく話すことはあれど、自分自身のことについてあけっぴろげに話すことはあまりない。しかし会話の流れで自分を説明する機会というのは頻繁ではないにしろ、確実に訪れる。そんなとき、よく「わたしってマジでサイコー!最強の人間」とひどく漠然と自称する。が、それ以上の描写が難しい。なんというか自分の認識している自分像と、他人から見えている自分との間に乖離があることが恥ずかしい。自分と一番付き合いの長い自分が、自分と向き合っていざ自分について他人に向けた言葉にしようとすればするほど、どうしても自分自身が凡庸な存在であるように思えることもある。自分で気に入っている点はたくさんあるが、それが世の中にとって手放しに喜ばれることかはわたしにはわからない。つまり取り立てて他人に自慢できるようなことがない。もっと自分より優れた人間がたくさんいることを知ってしまっているからなおさらである。
それでいて、でもやっぱり自分はなにか際立った才能や光り輝くセンスをもつ、だれがどう見ても特別な存在なんじゃないか、という一縷の希望を捨てられない。
糸井重里が、村上春樹との共著のあとがきにて自分について以下のように語っている。(彼はかつて、主語のない男などではなかったように思う。)
煎じ詰めて言えば、私は存在が希薄で意志が弱くわがままでない。そんな私のたったひとつのお願いはといえば、そんな私を愛していただきたいということに他ならない。ムラカミハルキの前書きを読んだら、すぐに私の書いたこの後書きを読むといった、そういった優しさを望んでいる。そういうことをしてくれさえすれば、私は、あなたの夢に喜んで登場するであろう。薪割り風呂たき雑巾がけはもちろん、殺されることもののしられることも、セックスさえもいとわない。 『夢で会いましょう』あとがきより
そうか。自分はこんな人間ですと伝える努力は必要なのかもしれない。そしてわたしはそういった自分の弱さもまるごと受け入れてくれる存在を求めているのかもしれない。受け入れてくれさえすれば、自分の持ちうるすべてを差し出したくなるような、圧倒的な唯一無二の存在を。はたしてそんな人間はこの人生にあらわれるのだろうか。また、いまのわたしには幻想にしか思えない、夫婦間の「愛」とは人間が本来持ちうる受容の精神のことなのだろうか。まあこれも、考えても仕方のない「徒労」ですね。
語彙は誰にも奪われることのない財産
もうひとつ、能町さんの素敵な点として、他の読者やファンの方も多く言及されているように、能町さんの文章はとにかく大変美しいのである。特に、語彙の豊富さにキュンキュンしてしまう。複雑なコンテクストや心情に対する適切なことばを、あらゆるバリエーションで持っているかどうかというのは、文筆業に身をおいていない人間にとっても大切なことである。
含羞、収斂、必定、外連味、、、。
字面から意味が読み取れるとはいえ、ではゼロから文を書いてみろと言われたときに「含羞」はでてこないよ。はずかち!
先回りの予言
こうしてみると、楽しみにしていた3月の「久保みねヒャダのこじらせナイト」が中止になったのはもはや運命だ!とさえ思える。そうでなかったら書店で見かけても、「ふーん、能町さんの新作なんだー。結婚?興味ねーわ」で終わっていた。恋愛ダリーし結婚とか遠い星の話なんですけど期である。
と、ここで以下の一節がわたしに強烈に突き刺さる。
どこか運命じみているけれど、運命にしては関連性がなさすぎる。運命なんてないんだよ、自分で引き寄せた必然に偶然が混ざってこうなっただけ。 『結婚の奴』p.44
もうこんなん能町さんしか勝たん。
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<引用文献>
・能町みね子『結婚の奴』、2019、平凡社
・村上春樹、糸井重里『夢で会いましょう』、1986、講談社
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