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看護学生のインタビューレポートから:南城市佐敷字手登根古式エイサー

*写真は沖縄タイムス社から拝借しました。

手登根古式エイサーについて

注:文中の*は講座工房サンジチャーが補足しています。

【インフォーマントの属性】
語り手:男性 80代 南城市在住 K氏 祖父

【テーマ設定の理由】
エイサーの授業を受けた際に、先生が手登根エイサーのことに少し触れていて中学生のころまで私自身も手登根に住んでいたし、祖父が参加していたことを思い出したのでこの際に詳しく知りたいなと思った。また、私自身も小学生のころに琉球舞踊と三線を習っていたこともあって、昔からある伝統芸能やエイサーなどに興味もあったので、このテーマを選んだ。

【インタビュー内容】
Q.何歳ぐらいの人たちが参加していたの?
A.主に20~30代の人が多かったかな、でも若者は少なくて、婦人会の人が多かったなあ

Q.基本的にどんなことをしていたの?
A.陸上競議会だったかな、それの予算を集めるために各家庭を回ってエイサーを披露して、そのお礼にお酒などの飲み物とか、現金などをもらって資金にしていたよー。そのほかにも国立劇場、RBCのテレビ放送、守礼門の落成式、シュガーホールなどでエイサー披露したよ。守礼門の落成式では、踊り手と太鼓と地謡(じかた)合わせてだいたい100名くらいいたねー。守礼門の落成式では、平敷屋と手登根の人たちがエイサー披露したよ。

Q.らくせいしきってなに?
A.門の完成を祝うことで、関係者とかにお披露目する行事のことだよ。

Q.なんで手登根と平敷屋の人たちだけエイサーしたの?
A.それはさ、戦後エイサーがあったのは、手登根と平敷屋だけでその他のところはエイサーじゃなくて盆踊りだったからだよ。

(※沖縄戦で焼失した守礼門は、1956年に復元期成会が結成され、57年に復元工事着工、58年10月15日に落成式が行われた。全島エイサーコンクールは1956年に開始され、平敷屋は第3回目の1958年に優勝している。「その他のところはエイサーじゃなくて盆踊りだった」というのは、日本式の盆踊りなのか、他のエイサーに関しての情報がまだ共有されていない時代なのか、また念仏エイサーやモーアシビエイサー、締太鼓エイサーがまだ様式化されていなかったためなのかは判然としない)

Q.誰でも参加できるの?
A.基本的に参加したいと思った希望者は参加できたよ。40~50年前の記憶では年会費や参加費というものをドルで支払っていた。

Q.じいちゃんは何歳くらいのころから参加していたの?
A.20歳~ばあちゃんが亡くなる前の7年前くらいまで参加していたよ。

Q.なんでエイサーに参加しようと思ったの?
A.部落の書記、会計(役員)やってたこともあるけど、自分がやったらみんなもやるかなと思って自分から率先してやったよ。

Q.地謡もやったことあるの?
A.練習の時は地謡をやったことあるけど、基本的には旗がしらとエイサーをやった。

Q.練習とかはいつ集まってやっていたの?
A.お盆前になると、公民館から音楽が流れてきて、それを聞いてみんな公民館のある農村広場に集まってきて、夜の8時くらい~10時くらいまでみんなで練習した。

Q.何のためにエイサーやるようになったのかわかる?
A.手登根では、戦後お盆が終わってもお墓に帰らないで霊がさまよっていて、この霊をおいはらうために、あちこちの十字路でエイサーをやったよ。毎年旧盆の16日に部落行事として参加できる人たちが部落内の拝所を回ってエイサーを行っていた。

(※十字路は他界との出入り口とされる)

Q,そもそもエイサーってだれが振り付けしていたの?
A. 部落内出身の先輩たちが踊りとかの振り付けをしていたな。それがエイサーの始まりであると言われてるみたいだねえ。

Q.エイサーやるときどんな雰囲気だったの?
A.それはもうねー、エイサーのときはもちろんなんだけど、盆踊りの時とかもたくさんの出店もあってね、とても盛り上がっていたよー。でも今はほとんどそういうのもなくなってきてるさあ。今の若者はこういうのやる子も少なくなってきてるし。

Q.今も手登根エイサーある?
A.コロナの影響もあってここ2年くらいは取りやめているみたい。

Q.エイサーやっててよかったなとおもうことは?
A.多くの区民との繋がりができて交流できたことがよかったよ。エイサーの時に仲良くなった人たちと今も仲良く、楽しく人生送っているよ~。

【考察】
エイサーができたのは、お墓に帰りきれなかった霊を追い払うために行ったことがきっかけである。そのような理由で始まったエイサーが今、こうして今の時代にまでつたわり、形として残っていることはすごいことであって、エイサーを行う人がいるからこそエイサーについて知ったり見たりできている。エイサーに参加した人たちは部落内の人たちとの絆なども築かれたのではないかなと考える。
また、エイサーは太鼓たたく人だけいてもできないし、チョンダラーだけいてもできないし、太鼓たたく人、地謡、チョンダラーなどが揃ってはじめて一つのエイサーになっていると思うから、協同の精神なども築かれたのではないかなと思う。身近なところにこんな歴史のあるすごいエイサーがあったんだなと実感することができた。

【インタビューを終えての感想】
今回、私は80代の祖父にインタビューをした。昔から手登根古式エイサーがあることは知っていたけど、今回初めてインタビューをして、知らなかったことが多くあることがわかった。実際に公民館から音楽が流れているのは聞いたことあったけど、その音楽がエイサー練習の呼びかけをしているものだとはしらなかった。
今まで私の中ではエイサーと聞くと、30代から上の男の人がやっているイメージが強かったけど、今回インタビューや社会学の講義の中で若者の人もエイサーに参加していたことを聞いて、自分の思っていることが違っていたことを強く感じた。エイサーなど昔からの伝統行事には歴史や起源があることが分かったので今後も残していきたいし、後世に伝えていくには若者の力も必要なことだなと思った。
私が知らないだけで、沖縄県内ではこんなに多くの地域でエイサーが行われていることを知り、各地域でそれぞれのエイサーに特徴があることに驚いた。身近にエイサーに参加している人がいて、インタビューしてたくさんのことについて知ることができたのでいい機会になった。


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