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看護学生にインタビューレポートから:祖国復帰

*写真はネットから拝借しました。

祖国復帰についてのインタビュー


【インフォーマントの属性】
語り手:男性 70代 浦添市在住 祖父

【テーマ設定の理由】
講義で祖国復帰についての話を聞いたときに、沖縄の歴史に興味をもち、もっと詳しく調べたいと思い、以前、祖母父が祖国復帰について話していたことを思い出したので、このテーマに決めてインタビューしてみました。

【インタビュー内容】
Q.祖国復帰した時はいくつだったのですか?
A.ちょうど30歳だったよ。仕事をして、結婚もして、子供もいたよ。

Q.復帰前はドルを使っていたんですよね?
A.戦後はB円を使っていて後にドルにかわっていったよ。本当はほかの国との関係で変わるらしいけど、当時は1ドル=360円って固定されてんだよ。ちょうど家を建てようとしている時期で、土地はドルで買って、建てる時は円になったんだよ。ドルで借金していてすぐ円に変わったから少し得だったよ。

Q.復帰運動とかにも参加したのですか?
A.したよ。みんな日本国憲法に期待していたから….。教員として働いていた時は、バスを貸し切って皆で与儀公園っていうところまで行って復帰運動に参加したよ。教職員組合っていうものがあったんだよ。でも、教員の中にも仕事を辞めて、給料が高い軍作業に行く人もいたよ。アメリカの軍人達はお金をたくさん使っていたから、沖縄の人が飲み屋に行っても『しまーが来た』って言ってお金がアメリカ人よりないことをバカにしていたよ。

Q.復帰前はどうでしたか?
A.日本に行くのにもパスポートが必要で外国扱いだったんだよ。アメリカの人たちが思想調査っていうものをしていたよ。アメリカに反対している人かどうかを調べていたんだよ。アメリカの政府とかは、瀬永亀次郎を恐れていてね。なぜかっていうとすごく人気があったから。人気があったから、アメリカに対して強くものを言えたりしたんだよね。当時、私は中学生か高校生くらいで今の那覇市立病院あたりに住んでいたんだけど、その頃そこはすごい田舎だったから、瀬永亀次郎の演説があっても遠くて、行きたかったんだけど行けなかったんだよ。瀬永亀次郎は、那覇市長にも立候補して当選したんだけど、しばらくすると追放されてしまったんだよ…。

Q.復帰した後はどうでしたか?
A.複雑な気持ちだった。経済的には良くなったのかもしれないけど、日本国憲法にある平和主義や人権とかに期待していたように基地はなくならなかったから。アメリカ兵による事件とかもたくさん起こったんだよ。内地の人には、沖縄の人は英語が喋れると思われてたんだよ。

【考察】
実際の祖国への復帰は、当時の沖縄の人が願っていた祖国への復帰のかたちとは違っていたことがわかりました。本土に復帰してから42年たった今でも、基地問題などが祖国復帰の頃から続いて残されていると感じました。また、通貨がB円からドルになったり、アメリカの支配下になったりして不安定な世の中だったにもかかわらず、諦めずにお互いに協力し手を取り合って復帰運動に参加することができたのは、沖縄の人ならではの強い結びつきがあったからではないかと考えました。

【インタビューを終えての感想】
 今回、インタビューをして一番感じたことは、当時の人はとても積極的に祖国復帰運動や演説会などに参加しているというとこでした。昔の人達が、このような行動をしていなかったら今の沖縄はなくて、アメリカの支配下にいたのかもしれないと感じました。
 こういった祖国復帰などがあった時代を生きていた人は、今は歳を取っていて、これからどんどん減っていくと思います。そうすると、沖縄の過去のことを知らない人が今よりももっと多くなっていくと思います。今後も語り継いでいくために、私たちも昔の人たちのように何か行動を起こさないといけないと感じました。

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