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看護学生のインタビューレポートから:宮古島から浦添への移住と祖国復帰

*写真はネットから拝借しました。

祖国復帰の頃について

語り手:男性 70代 浦添市在住 M氏 父

授業でこの内容を聞いたときに、私が生まれ育った沖縄は、どういう時代を歩んできたのだろう、また両親から祖国復帰前の話を少し聞いたことがあったな、と思い出し興味が沸いたのでさらに深く聞きたいと、このテーマを選んだ。

Q.浦添出身だったよね?宮古からの居住者は多いと感じていた?
A.あぁ~!多かった!多かった!右も左も後ろも全部だったよ!家庭の事情は知らないけど、最初は一人で来て、しばらくしてから家族を呼び寄せ、さらにおばさん、おじさんもみんな来ていたみたいね。小さかったから詳しいことは覚えてないけど、確か、浦添の宮城や仲西らへんじゃなかったかな。宮古の人は根性・やる気がすごかったから、小学校のPTA会長や議員に立候補して、地元民のほうが縮こまっていたよ。

Q.シマ社会のような・・・?
A.そうそう!!もうすごかったよ。

Q.小さい時は沖縄は外国に感じた?
A.ううん、そういうふうには感じなかったよ。小さい時はそこらへんに骸骨が転がっていたよ。友達の家へ行くとき、学校へ行く途中に畑があってその周りは草が生えていたんだけど、草を少しかきわけただけで戦死しただろう人の骨がたくさんあって、子供たちはがんまりして拾って驚かしたりしていたよ。近くでは畑があるのに、畑やってる人はとろうとも思わなかったみたい。
お金は、最初はB円っていうお金だったけど、途中でドルになって、祖国復帰後に円になったね。当時、1ドル360円だったはずよ。
学校の給食にチーズや脱脂粉乳、パンが出てね、あれはアメリカから支給されていたのかもね。脱脂粉乳を溶かしたミルクを飲もうと思ったらハエが中でウジを生んでいたから、不衛生だったね。みんなはまずいって言ってたけど、パンにミルクをつけて食べていたよ。
そうそう、米兵がたくさんいて、とてもパリッとした兵隊着を着ていたよ。沖縄のおばさん達がアルバイトしていたのかな?井戸の周りにおばさん達がたくさんいて、固形石鹸で兵隊の洋服を洗ってパリパリにのりづけしていたよ。その当時のりもなかったと思うけど、基地から持ってきていたのかな。
 基地の中には年に1回だけは入れたんだけど、その時は紙コップみたいなのにアイスクリームを入れて無料で全員に配っていたよ。アイスクリームなんてなかなか食べれなかったから、基地の中に興味があるのではなく、アイスクリームを食べに行ってたようなもんだね。基地の中に建っている家はとても窓が小さかったんだけど、それは泥棒が入りにくいようにするためだったんだって。
 おばぁの家が屋富祖にあったんだけど、基地の近くだからそこら辺はアメリカ人相手の飲み屋がたくさんあったよ。沖縄は貧乏だったから、アメリカ人とつるんだらいろんな食べ物や物がもらえるといって、つるんでる人も多かったな。

Q.祖国復帰前はどうだった?祖国復帰運動とかしていた??
A.祖国復帰前は、県外行くのもパスポートが必要だったよ。当時大学でハンドをしていたんだけど、九州大会で九州に行く時、出発前にいろんな注射をされて、パスポート持って船で20時間以上かけて行ったさ。
 祖国復帰運動は参加したよ。沖縄県教職員組合が中心となってやっていたよ。夕方に担当者がみんなのおにぎり持って与儀公園に集まって、政治家や組合委員長が決意表明をして、プラカードを持ってひめゆり通りから安里、国際通り、県庁前って行ったさ。県庁前についたら解散だったよ。
わざわざやんばるからバスで来ている人もいたよ。やんばるから来ている人はなかなか那覇に来る機会ないから、那覇で遊んで帰ってたみたいね。
全軍労と言って、軍で働いてる人達も参加していたよ。ただ、日本に戻りたいけど、生活の糧は軍、日本に戻ったら基地がなくなり、生活できなくなるんじゃないかと理想と現実の狭間で悩んでる人も多くいたね。
父は祖国復帰に賛成だったから、軍で働いていたけど、辞めてかねひでに勤めていたよ。そういえば、大学時代にも、参加したことあったな。
「お前ら部活ばかりしてバカだな」と言われて、みんなで「沖縄返せ」ってデモに参加したな。復帰反対派の人もいたけど、その人達はその当時、沖縄が復帰したら「いもはだしろん」になるって言ってた。

Q.いもはだしろんって何??
A.昔みたいにいもしかなくはだしで過ごすような貧乏な沖縄に戻るよってことだよ。

教職組員がすごく復帰運動を頑張っていたから、警察は教公法というのをつくろうとしていたよ。そういう活動ができないようにするためにね。本来、教員は中立の立場となっているから、労働法に違反してるんじゃないかって。その時、教員と警察がものすごく対立をしたよ。ただ、警察の中には教員の教え子もいたりして、さすがにそういう教え子からは反発はそんなになかったけどね。結局その法は成立しなかったよ。
 そういえば、沖縄の初代知事は屋良朝苗って人でこの人は沖縄県教職員組合の人だったよ。

Q.祖国復帰後はどうだった?
A.1972年だよね?希望したような復帰にはならなかった。みんな基地のない平和な沖縄をイメージしていたけれど、基地はなくならなかった。ただ、パスポートは必要ないし、復帰に対しては万人同じ気持ちで喜んだと思う。

考察
 戦争で日本は負け、沖縄はアメリカの支配下となり、基地がつくられ、復帰運動では沖縄は基地のない平和な所に戻ると信じていたのに、日本政府の協力のもとに沖縄基地は維持されることとなった。二度も日本政府に捨てられたと感じた人も多くいたのではないだろうかと感じた。戦争では日本で唯一の地上戦を経験し、その後アメリカの支配下となり、復帰後も基地はそのまま残り、激動の時代を歩んできている沖縄。
よく沖縄の人は大らかで優しく、助け合いの精神もあると言われるが、こういった過去から現在に続く苦しい時代を乗り越え戦ってきていることからそういった人柄がつくられたのではないかと考えた。

感想
 祖国復帰運動や沖縄でドルが使われたいたことは遠い昔の話で本の中の話としか考えていなかった。今回、インタビューをして身近に祖国復帰運動に参加している人がいたこと、何も知らなかった自分が恥ずかしかった。先輩方は様々な時代を乗り越え生きてきて尊敬に値すると改めて感じた。年配者を大切にしていきたいし、年配者の希望・意思を私たちが受け継がなければならないと感じた。
また、沖縄独特の郷土文化(エイサー・琉球舞踊など)にあまり触れる機会がなかったが、激動の中でのみこまれそうになっていたかもしれないのに、今でも多くの郷土文化が残っているのは素晴らしいなと感じた。それは沖縄人(ウチナーンチュ)としてのアイデンティティーの危機を感じた人々が伝統文化を守るために一生懸命やってきたのかなと考えると、伝統文化を理解し大切にしていきたいなと感じた。

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