ハービー・山口「ヨルダン川西岸地区写真展」アップリンク吉祥寺ギャラリー
現在アップリンク吉祥寺ギャラリーでは、写真家ハービー・山口が2013年11月にNPO法人「国境なき子どもたち」の依頼で10日間ほど、パレスチナのヨルダン川西岸地区を訪れ撮影した写真展を開催中。当時の様子をインタビューで語っていただきました。
──今回の写真展はヨルダン西岸地区で撮影された写真から選んでいますね。
はい、2013年にNPO法人「国境なき子どもたち」の依頼で10日間ほど、パレスチナのヨルダン川西岸地区に撮影に行ったときの写真です。「国境なき子どもたち」は、東北でも支援活動を行なっていて、海外にもいくつか事務所があります。西岸地区にも事務所があり、子どもたちに教育の場を与えています。写真に写っているような楽器の教室などをしていました。そこを中心に、近所の町などを撮ったんです。一週間もいれば子どもたちと顔見知りになって、「ちょっと壁の前に行って、撮らせてほしいな」と頼んだのがさっきの壁のところの写真です。
── 当時の現地の様子を聞かせてください。
パレスチナは地中海に面したガザ地区とヨルダン川西岸地区に分かれていて、僕が訪れた西岸地区は砂漠の中にあるような場所でした。西岸地区には、写真に撮ったようなそびえるような高さ9メートルくらいの壁にぐるっと囲まれています。壁は真っ直ぐじゃなく、くねくねくと延々続いていました。
1989年にベルリンの壁を取材したことがありました。その壁は大体3メーターぐらいの、わりと簡単に登れる高さで、ベルリンの壁が壊れたときには市民がみんなその上に乗っかっていました。でも、パレスチナの壁はものすごく高いから登ることなんかできない。さらに監視塔があって常に見張られている、という状態でした。
壁はメッセージボードのようになっていて、これには「DON'T FORGET THE STRUGGLE」と描いてあります。「ストラグル」は抵抗して苦しむってことですけど、それを忘れるな、という。こちらは、リバティ、自由って描いてある。そして、この壁を壊してるようなイラストがある。イスラエルはイラストに関して、消せとか何も言わないんです。
高さ9メートルほどの壁 10年前でさえ入植地というものが何十ヶ所もあって、本当はそこはパレスチナ人が自由に使っていい土地なのですが、イスラエル人がその一角を徐々に占拠してしまい、パレスチナ人が入れないよう、門番が銃を持っています。ここに住んでる人たちは怖くないのかなと思いましたがそれが日常でした。
僕は、イスラエル側のホテルに泊まっていたので、毎日国境を行ったり来たりしてました。パレスチナにはアラブバスという、イスラエルとパレスチナをつなぐ定期便があって、それは向こうで働いているような人たちが利用する乗り合いバスのようになっていました。国境を越えるときと戻るときに、機関銃を持ったイスラエルの兵隊が来て全員のパスポートを調べます。
日本人はどっちにとっても敵ではないから、「はい、はい」くらいで終わるのですが、パレスチナ人だと「何で今イスラエルに来るんだ」と尋問されたり、バスから下ろされて整列させられたりしていました。
それと、イスラエル側にはマーケットがあって、そこがちょっと混沌としていました。イスラエル人もパレスチナ人もミックスしてるような地域もなくはないんですね。
壁を越えるとイスラエルの文化なので、荒地のような感じではなく、街の様子は緑豊かで、ヨーロッパにあるような閑静な住宅地が続いている感じです。大型のアートブックを扱っている書店があり、そこで発売されたばかりの写真集を購入しました。私とも交流のあるチェコ出身の写真家でマグナムのメンバーであるジョセフ・クーデルカの著書「WALL」というパレスチナとイスラエルの国境を隔てる壁を写した写真集です。
──── ハービーの目にパレスチナの子どもたちはどう映りましたか?
純粋無垢。この子たちが自分の国とか、壁に囲まれてる状況をどう受け止めてるのか、というところまでは話ができていません。なのでそれをどこかで知りたい。彼らの肉声で。僕は本当にこの純粋で大きな目、濁りのない目を撮って残すことが、僕にできることなのかなと思います。もし西岸地区が攻撃されたら、親が殺された、ということになって、彼らの夢は失われて、敵を見る目になってしまう。そうなってしまったら本当に悲しいですよね。
──── 子どもの写真を撮っていたときの、覚えているエピソードがあればを教えてください。
この子はよく僕に懐いてくれました。「国境なき子どもたち」の校舎から10分ぐらい行くと丘があるんです。そこを走りながら僕に「アイ・ラブ・ユー」って言ってくれました。それでね、この子のお母さんが優しいんです。僕が帰る前日に家に呼んでくれました。
彼のお兄ちゃんやお姉ちゃんも一緒に。民族によって少し発音が違うんですが、マルクーバーという鶏肉を主体としたごった煮みたいな料理があって、彼らのご馳走なんだそうです。それを鍋で焼いて作ってくれました。
その後、日本人のスタッフに「マルクーバーをご馳走になった」と言うと、「あのお家は貧乏だから、ハービーさんにマルクーバーを出したら、一週間ちょっとは彼らは貧相な食べ物で我慢するだろう」って。最善を努めてお客さんを迎えるっていう習慣がすごくあるんです。
昔、漫画か何かで読みました。アメリカ人や日本人が招待されて、みんなはお客さんの方に「美味しい肉だから食べろ食べろ」って。法律上お酒は飲まないんだけど、お客さんは飲んでお腹もいっぱい、もう食べられないって。それでお客さんが帰ったあとにその家の子どもが残っているものをワーって全部食べた、という話です。自分もお腹がすいていて食べたいってことは一言も言わずに、お客さんに食べさせる。それが彼らの、お客さんのもてなし方なんですね。
それから、よく色んなところに連れてってくれていたタクシーの運転手さんがいました。すごくお金持ちなわけではないのに、「これ持ってきな」と言って、カップとソーサーが5客ぐらい入ってるティーセットをくださいました。
──── 今年の春から日本写真芸術専門学校の校長に就任しましたが、学校の生徒にはどう教えていますか?
色んな場所を見て、日本も東京だけではないし、田舎だけでもない。代官山みたいに良い集合住宅街があっても、写真に残さなければ変化していく経済の中で跡形もなくなってしまう。そのように世界はどんどん動いていると。その中で、人間として大切にするものを、常に変わりゆく社会の中から、無くしてはならないものをきちんと把握してそれを守ったり、未来になくてはならないものをもう一回再建したり。気持ちは全部共存できるような精神を持とうね、っていうようなことを若い人には言いたいです。パレスチナの子どもたちがどれだけの青春の夢を持ってるのか、聞いてみたいです。日本人だったらフランスに住んで絵描きになりたい、とか。この子たちの中にはそういう子もいるとは思うけれど、どういう希望を持っているのか。みんな同じ人間なのですから、お腹がすくし美しいものに憧れる。夢や希望を持ちたい。それを一生懸命幸あれと思いつつ撮影する。写真集『代官山17番地」だったら良い雰囲気が、半年後にはもう閉鎖されて壊れちゃうんだぜって、ちょっと胸を痛めるようなこともあるじゃないですか。だから純粋であるが故に、この子たちの未来があるのかな、と考えます。撮影するときには、技術ではなく、そういうふうに感じるっていう心構えが大事だと伝えています。
──── ハービーが撮る人物、ロンドンや代官山、福島そしてパレスチナでもみんな共通する表情の瞬間を捉えています。どういうタイミングでシャッターを押すのでしょうか。
どこへ行っても、人間として清く生きていけたらいいなとみんな思ってるはずなんです。パレスチナは許せない、ウクライナは許せないって、極端になってしまう人たちもいるけれど。西岸地区の肉屋さんに行って、「どうですか?毎日いつ弾が飛んでくるかも分からないでしょう」なんて言ったら、「俺たち兄弟なのに何でこうしなきゃいけないんだろうね。」と言っていました。兄弟っていうのは、人間として隣人として、という。西岸地区に一つ大学があった覚えがあります。どうなんでしょうね。パレスチナのこの人たちがパスポートを持って、パリだロンドンだニューヨークだ、といって活躍するような人たちが出てくるのか。この人たちの将来はどうなるのだろうと考えます。
──── 撮影時にカメラの高さは意識してますか。 例えば子どもだったら、ちょっとしゃがむとか。
あんまり俯瞰ばっかりだとちょっと偉そうなアングルになってしまうので、自分はちょっと低い位置に、っていうこととか。僕の身長は160センチぐらいなので、カメラの位置は150センチぐらいになります。そればっかりだとちょっと飽きちゃうので、やっぱりしゃがんだり、というのも絶対必要だと思いますよね。それから逆にポールか何かをつけて2メーターぐらいの高さから撮る、というようなことをやってる人もいますよね。
──── 写真の大半が被写体の目線の高さですよね。
そうですね。「代官山17番地」では二眼レフだったのでますます低くなっています。僕の身長が160センチとして、高さ100センチくらい。そうするともっと何かリスペクトするような、見上げる感じになるんですよね。
──── 被写体の笑顔を撮る秘訣は?
笑ってくれ、というのではなく、日本語は通じないし相手もペラペラの英語ではないので、この日本人のカメラマンを感じるってことなのかと思います。なので「僕のカメラを見て」と言うと、相手は何の偏見も持たずに、ありのままの汚れない心で、そのまま見てくれる。だから素の表情なんじゃないかと思います。
──── 撮影する際、フィルムかデジタルか、どうやって決めているんですか?
バランスとその時の気分ですね。やっぱりフィルムにはフィルムの独特の質感があって、デジタルはデジタルできちっとなる良さがある。ちょっと人工的だなって思う人もいるけれど。本当に大事なものだったら両方で撮ります。フィルムがね、一本2000円から2500円と高くて、、。
この前の4月、ブラジル出身で世界的写真家のセバスチャン・サルガドという、温暖化になった南極に住むペンギンや、クウェートの油田に誰かが火をつけたのを消している油だらけの作業員なんかを記録している、その彼にロンドンで会いましが、今はデジタルでしか撮らないと言っていました。
フィルムは感度の制限もあります。400とか800とか。デジタルであればいきなり1万にもできます。税関でX線を当てられてパーになる、ということもないので、全部デジタルでいいって割り切ってしまっている人もいます。
それでもフィルムの質感がいいという人が映画監督でもいると思うんですよ、フィルムのね。私もフィルムの世代ですから、全部デジタルだけ、というのはちょっと心もとない気がするので、今でもフィルムカメラは全て整備して、いつでも使えるようにしています。パレスチナに行くときも2、30本フィルムを持って行きました。
──── ところで、パレスチナのことを最初に知ったのはいつですか。
1973年に石油危機という、中近東が石油の輸出を止めた時期がありました。日本は石油が入ってこないから、トイレットペーパーが値上がりして。第一次オイルショックですね。そのときに僕は既にイギリスにいて、英語の学校に通っていました。
そのクラスにクウェート人がたくさんいたんです。春休みにクウェート人の生徒に、「クウェートに写真を撮りに行きたいから君の家に泊まらせてよ」とお願いしたら快諾してくれました。ある日、クウェートの大学を訪れたのですが、みんなアラビア語ではなく英語で授業をしていて、すごいなと思いました。
そのキャンパスに綺麗な女子生徒がいたんです。僕は写真を撮らせてくれないかと頼みました。すると快諾してくれたので、「あなたはクウェート人ですか?」と聞くと、彼女は「パレスチナ人です」と答えました。そして、「私はもう祖国には戻れないんですよ」って言ったんです。
日本じゃ考えられない。祖国に戻れないなんて、そんな情勢があるんだなって。それが僕の最初のパレスチナ人との出会いでした。73年にはパレスチナがどこにあるのかさえ知らなくて、名前を聞いたことがあるぐらいで…。
パレスチナの知識はほとんどありませんでした。
2013年にパレスチナに行ったとき、もしもその人が戻っていたら今は60歳ぐらいになってるだろうなぁって。いるわけないと思いながら、その人のことが思い起こされました。何かちょっと悲しそうな顔をして、「祖国には戻れない」って言っていたのが。世界は広いな、そういう国があるんだ、って何かを漠然と思ったのを覚えています。