采配紛失!関ヶ原の戦いでどうする家康ー美濃への急使
序章: 不吉な兆し を読む
第二章: 美濃への急使
関ヶ原では、戦の火蓋が切られようとしていた。
この戦での勝利のため、徳川の軍は慎重を尽くし万全の準備を尽くして臨んだ……はずだった。
家康の胸には、采配を見失ったことは不吉な兆しと感じてならなかった。
本多正信は、家康公の命運を背負うかのごとく、急使を美濃の紙漉き職人の地へと送り出した。
「もし采配が間に合わねば、家康の心に巣食う不安が戦の趨勢に影を落とすことになるやもしれない……」
正信は藁にもすがる思いであった。
戦局は刻一刻と動いていた。
美濃への急使として選ばれたのは、若き田中五郎(注1)であった。彼は家康に忠誠を誓う若武者であり、正信の指示を受けるやいなや、ただちに馬にまたがり疾駆した。
霧が立ち込める戦場を背に、彼の心にはただ一つの思いが宿っていた──家康公の采配を間に合わせること。
それが彼の使命であり、全てであった。
正信の言葉から浮かび上がる美濃の紙漉き職人、彦左衛門の姿が、五郎の脳裏に映じた。彦左衛門が漉く紙は、かねてより天下一と称えられている。しかし、今回はただの紙ではない。天下分け目の合戦に用いられる采配の紙である。
五郎は馬を駆り立て、険しい山道を越え、夜陰の迫る中を突き進んでいった。
御手洗の静寂を破る
美濃の御手洗──山深く、四方を険しい山々に囲まれたこの地は、外の喧騒から離れた、まるで時が止まったかのような静寂と平穏が息づく村であった。
緑豊かな木々が幾重にも折り重なり、風がその葉をそっと撫でると、木漏れ日がゆらめきながら地上を照らし出す。鳥たちのさえずりが、透き通るような青空に響き渡り、清らかな水をたたえた川面を滑るように流れる水音は、耳を傾ける者の心を穏やかに包み込んだ。
この地では、季節が巡るたびに村人たちの営みも静かに変わっていく。春の新緑、夏の深い緑、秋の紅葉、そして冬の雪景色──四季折々の美しさが、ゆっくりと時間を刻むように彩っていた。
その自然の恵みに感謝しながら、人々は穏やかに暮らしていた。この平穏な営みが何よりの宝であった。
そんな村に、紙漉き職人の彦左衛門が住んでいた。ひっそりと佇む彼の住まいは、川辺に近いことから紙漉きに最適な場所であった。毎朝、彦左衛門はまだ薄明の頃から水を汲み、紙漉きの準備を整えていた。
彼の手は、まるで自然と一体化しているかのように滑らかに動き、一枚一枚の紙に魂を込めていく。
紙を漉くその姿は、美濃の穏やかさを象徴するかのようであった。
村人たちは、彦左衛門を心から敬愛し、その技術と人柄に深い信頼を寄せていた。しかし、彦左衛門は決して己の技を誇ることなく、ただ黙々と自らの仕事に励んでいた。
彼にとって紙漉きとは、自然と調和し、己の心を映し出す鏡のようなものであった。川のせせらぎが彼の心を癒し、風が吹くたびに木々が囁く声が彼の耳に届いた。その一瞬一瞬が、彼にとっての安らぎであり、人生そのものであった。
穏やかな静寂を引き裂くかのごとく、突然、山間に鋭い音が響き渡った!
遠くから迫り来る馬の蹄の音は、あたかも雷鳴が近づくように激しく、村全体を揺るがせた。木々の間を切り裂くようなその音は、瞬く間に村の中を駆け抜け、静寂を一気に破壊した。
村人たちは驚愕し、何事かと戸口から顔を覗かせた。
彼らが目にしたのは、汗まみれの顔で馬を駆る若者──田中五郎であった。
五郎は必死の形相で馬から飛び降りると、周囲を一瞥し、迷うことなく彦左衛門の家へと走った。村人たちはその様子に息を飲み、ざわめきが村中に広がった。
「家康公の采配に用いる紙を、至急漉いていただきたい!」
五郎の声は、村の静けさを打ち砕くかのように響き渡った。緊張と切迫感が入り混じるその言葉に、彦左衛門は一瞬、息を呑んだ。
天下の徳川家康──その名は、美濃の山奥に住む彼にとっても聞き馴染みのあるものであった。だが、その采配に使われる紙を、自分が漉くことになろうとは、夢にも思わなかった。
「私ごときの技で、果たして家康公のお役に立てるのでしょうか……」
彦左衛門の声は、静かながらも震えていた。長年の修練を積んだ彼でさえも、その重責に動揺を隠せなかった。しかし、五郎の焦燥した顔を見た瞬間、彼の心は静かに決まった。五郎の目には、家康公の運命がこの紙にかかっているという真剣な思いが浮かんでいた。
五郎の切迫した表情を見たその時、彦左衛門は覚悟を決めた。己の手が、この天下分け目の戦いに何らかの影響を与える──その重みが、彦左衛門の胸に響いた。そして彼は、ゆっくりと頭を下げ、深い息をついた。
「お任せください。心を込めて私ができる最高の紙を漉きましょう。」
その言葉には、職人としての誇りと、覚悟が込められていた。五郎はその返答に安堵し、深々と頭を下げた。
村の静寂が再び戻り始めた中、彦左衛門の家には新たな使命が生まれていた。彼の手で漉かれる紙が、戦場に響く新たな采配となる時が来たのである。
つづく
注1)この物語は、関ヶ原の戦いにおける徳川家康の采配の破損または紛失をテーマにした歴史小説です。田中五郎という若武者は創作キャラクターであり、物語の展開をドラマティックにするために登場しています。物語全体の背景は史実や民間伝承に基づき、采配は戦いの最中に失われた方を採用し脚色しています。
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