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少年野球審判とプリンシプル、ヴィジョン、英語教育あるいはパノプティコンについて
先日、野球の審判講習会(たぶんこれhttps://www.baseballjapan.org/jpn/umpire/doc/shinpankosyu_m5.pdf)に行ってきました。
野球は全くやったことがありません。年に数回、プロ野球を見る程度です。子どもたちが野球を始め、チームの保護者で審判の分担しています。当然、私は何もできません。塁審くらい(この時点で軽く見ていました)ならお手伝いできるかも、ということで軽い気持ちでエントリしました(後日、非常に後悔します)。
まず、着るものや靴の色など服装などの規定が異様に細かい。きょうび、悪名高い校則でもこれほど細かくはありません。また開講式、歓迎の言葉、激励の言葉などスケジュールも仰々しい。競技、地域、大会レベルによると思いますが、高校部活動ではこうしたセレモニーはほとんど行われなくなっているので、小学校や中学校スポーツの現場で生き残っているのを見ると、カルチャーショックを受けます。
私としては、練習や練習試合、市内の小規模な大会などでお手伝いができればいいな程度の軽い気持ちでエントリしたので、ガチガチのフルコミットメントがいきなり求められるのに面食らい、ハードルが高いなと感じました。
元々マチズモやホモソーシャルな環境が嫌いなので、体育会系は苦手です。野球やサッカーは、スポーツとしては好きですが、そうしたものの権化のようにとらえています(いました)。なので、こんな無駄に高いハードルを設定するから競技人口が減るんだよ、と悪感情をもって当日に臨みました。結局、他の場面で使いもしない靴や服、道具も買いました。当日楽しみだったので、他の保護者の方と乗り合わせで行くという部分だけでした。
野球に限らず、たいていのこうしたイベントや研修にマイナス感情をもって臨む私ですが、今回の審判講習会も例にもれず楽しむことができました。
仰々しいセレモニーや旧弊な声出しなどに辟易しましたが、ラフな服装の人も多く、私も結局YONEXの黄色いジャケットとネイビーのウインドブレーカーで1日通しました(大変に浮いていたと思います)。全体を通して、野球の審判はこういう点を見ているのか、こういったことを意識しているのかと驚きの連続で、概して楽しむことができました(審判を務めることができる気は全くしませんが)。
ここからが本題です。当然ですが、参加者がある程度ルールを理解していることを前提として、講習が進んでいきました。ボークの時はこう、スイングの確認の時はこう、といった具合です。ここに足を置いてこういう姿勢をする、こちらの手をあげる、ここに立つ、こういったポーズでこういうコールをする等といった内容が多くを占めていました。
(おそらく)審判のプリンシプルを理解し、共有しているインストラクターの方からすると理にかなった内容なのでしょうが、それが伝わっていない参加者の側からすると、細かい立ち位置(ベースから3m等)や手のあげ方をひたすらに伝えられるので、困惑し、辟易としてしまいます。私も競技は違いますが、ソフトテニスの審判をすることがあります。そのプリンシプルを当てはめると、理解がしやすくなったと同時に、これが伝わっていないと苦しいなと感じました。野球がどうかはわかりませんが、審判におけるプリンシプルつまり原則は、「プレーヤーが支障なくプレイできるゲームの運営をする」と私は考えています。その下位原則として、基本的には目立たない、判定と進行はわかりやすく、があります。大きく明朗な声でのコールや大きくはっきりとしたジェスチャは、こうした原則に基礎づけされます。野球やサッカー、ラグビーの場合は、審判の居場所が不定なので、これらに加えて「適切にプレーを見届けられる位置取り」も必要です。
おそらくこうしたプリンシプルに則っている限り、姿勢やジェスチャ、立ち位置の細かな規定はないはずです。プリンシプルに則した立ち居振る舞いをするというヴィジョンの共有が出発点となっていれば、ただひたすら細かいことを矢継ぎ早に教えられるという印象にはならなかったはずです。今回教えられた内容は、プリンシプルに則って行動するための細かいtipsだったように思います。都度、ここに立つと見やすい、見届けるためには止まっておく必要があるなどの言及はありましたが、これらを総合しなければプリンシプルの共有にはたどり着けなかったと思うので、そうした帰納的なアプローチよりも、「プリンシプルの共有→講習」という演繹的なアプローチの方が(少なくとも私は)わかりやすかったです。
一方的に批判のようなことをしてきましたが、自分を含めた学校教育の場においても、至る所でこうした場面は散見されます(自戒をこめて)。時間がない、余裕がない、そんなことは当たり前だから言う必要がない、そんなことを話してもつまらないなどの理由でプリンシプルの共有がなされず、枝葉末節の指導や説明に終始してしまうことが多々あります。人事考課の関係で、自己目標シートなるものを書かされますが、これもプリンシプルが共有されず、意味もわからないままテンプレだけが墨守され、形骸化しているものの一つです。他にもたくさん例はありますが、特に面白くもないので列挙することはしません。プリンシプル、ヴィジョン、価値観、世界観とは、つまり前提のことですが、兎角こうした「そもそも」の話はおざなりにされています。
メンバー間の同質性、均質性が担保される集団の中では、これらは必要ありません(もしくは必要最小限で済ませられます)。こうした均質的で、前提を共有できる集団のことをホモソーシャルと呼びます。homoはギリシャ語のhomosに由来します。これは「全く同じ」という意味です。高校の生物で遺伝子について学んだ人は、同一遺伝子同士の対をホモ、異なる遺伝子同士の対をヘテロと呼ぶことを習ったことがあると思います。ホモ・サピエンス(こちらのhomoは「ひと」という意味)である私たちはその認知特性として、事物を差異化し「俺たち」と「あいつら」に分類しがちです。その結果、「俺たち」はどんどんと内側へ閉じていき、内輪に安住していきます。内輪の論理は、インナーサークルにいる者にとっては説明不要であり、コミュニケーションコストが非常に低い(つまり話が早い)のですが、内輪の言葉はしばしばジャーゴン化し、インナーサークルに属す者以外にとっては理解ができません。しかし、内輪はどんどん消えつつあります。私たちはまさに多様性の時代、社会に住んでいます。
昨今、この多様性という言葉が苦々しげな表情であったり、嘲笑とともに口にされる場面にしばしば遭遇します。これは明らかなバックラッシュであると私は思います。バックラッシュとは「ある流れに対する反動や揺り戻し」とGeminiは教えてくれます。例文として人権やジェンダー平等運動への反動が1番上にあがっていました。多様性は本来言祝ぐべきものです。集団は多様性が担保されている集団の方がレジリエンス(復元力)が高く、多様性が担保された集団であれば個人より自由に振る舞うことができます。こうしたバックラッシュに対してこそ、私たちは「そもそも」なぜ多様性が大切なのかを語ることが必要ではないでしょうか。
上述したように、現代社会においては、こうした「そもそも」を丁寧に手間暇をかけて共有することが大切になっていると私は考えます。なぜなら私たちはどんどん共有する前提が少なくなっているからです。インターネットの勃興により、マスメディアが力を失い、エンターテイメントからニュースまで皆んなが同じものに接するという機会が失われています。私たちが子どもだった90年代や2000年代初頭までは、テレビや新聞などによって皆が同じ話をする「プラットフォーム」が醸成されていましたが、YouTubeやTikTok、Instagramなどによってメディアが分散した現代には、こうした「プラットフォーム」が存在しない、存在しなくなりつつあります。また文化や価値観も多様化しています。外国からの移民も増え、文化、価値観、宗教、言語などあらゆるバックグラウンドを共有しない者同士が共生する社会が既に存在します(地域的な偏りはありますが)。これらを勘案すれば、(揶揄としてしばしば口にされる)「そもそも論」こそが語られるべきものであり、そもそものところから前提を共有し「目線を合わせる」ことが必要です。
白洲次郎の著書に『プリンシプルのない日本』があります。プリンシプルとカタカナで聞くと、私はこれを思い出します。対米外交において、右顧左眄する日本の様子を批判した内容であったと記憶しています(怠惰なので読み直すことはしない)。50年以上前から、プリンシプルのなさが批判されています。いつになれば私たちは、プリンシプルの大切さに気づき、それを語り始めるのでしょうか。
価値観や世界観が共有されていないと審美的な訴求は全く効果がないということに気づくことができたのも面白かったです。講習会の中で、こっちの姿勢の方がきれい、この声の出し方の方がカッコいいといった声掛けが繰り返されていました。ジェスチャーやコールの練習を私たち受講者がしている際も、きれいですね~、美しいっ、皆さんカッコいいですよ〜!とエンパワメントされていました。こうした声かけをする際のインストラクタの方々の満足気な微笑みが非常に印象的でした。「ウンウン、これだよこれ」といった様子で、本当に「キレイ、美しい、カッコいい」と思っているんだなという様子がうかがえました。
しかし、野球的な価値観や世界観に対して門外漢な私にとって、「キレイ、美しい、カッコいい」は???以上の効果を持ちませんでした。まず、何がどうなっていると「キレイ、美しい、カッコいい」なのかが、全くわからないので、こっちの姿勢の方がきれい、カッコいいと言われても、そのきれい、カッコいいという判断が、手の角度なのか、足の曲げ方なのか、何に対してされたものかもわかりません。加えて、なぜ審判のジェスチャーやコールに「キレイ、美しい、カッコいい」という価値基準が設定されるのかもわかりません。私にとって審判における所作の適否は「プレーヤー、観客からのわかりやすさ」しかありません。どんな判定をしたのかがわかりやすいジェスチャー、コールが良いジェスチャー、コールです。この手のあげ方をした方が見やすい、大きく見える、わかりやすいといった基準を与えられると得心できます。しかし、世界観、価値観が共有されていない状態でこうした審美的な価値基準をもって査定をされると不安しかありません。何が良くて、何が悪いのかが全くわからないからです。今回は少年野球審判におけるジェスチャー、コールの適否というその成否が私に何ももたらさない(誤解を恐れず端的に言うとどうでもいい)ものでしたが、これが仕事、学校、部活動といった自己の実存に関わる場面で行われると非常に大きな恐怖と不安を与えられるだろうなと思いました。また、こうしたブラックボックスの中に放り込まれるという不安は、容易に抑圧的な支配・被支配の構造に転化するだろうなと空恐ろしくも感じました。
そして、「キレイ、美しい、カッコいい」といった審美的な価値基準は学校現場でよく目にするものです。かつて「カッコいい大人になろう」をクラス目標にし、生徒に繰り返し説くのが好きな先輩(同僚)がいました。当時、ぼんやりと釈然としない思いを抱えていましたが、10年近くたってその理由がわかりました。「キレイ、美しい、カッコいい」などの審美的な価値基準を価値観や世界観が共有されないままに導入すると、それがどうでもいい場合は非常に空々しく感じられシニカルにしかとらえられません(今回の私のように)。一方、それが重要なものであれば、大きな不安と恐怖をもたらします。近代学校教育における教員-生徒の関係性は、基本的には支配-被支配の関係です。これは個々人の人間性が素晴らしいからといって解消されるわけではなく、学校教育というのは基本的には暴力を内包した装置であるというのが私の主張です(これは、機会があれば稿を改めて詳述したいと思います)。こうした関係性の中で、対象が何なのか、基準が何なのかが全くわからない査定の眼差しを導入することは、支配する側の抑圧する力をより一層強化します。ジェレミー・ベンサムが考案し、ミシェル・フーコーが世に広めたパノプティコンがここにも立ち現れます。パノプティコンは、囚人(被監視者)から看守(監視者)の様子がわからない監視システムです。囚人は、いつどこから見られているかわからないので、その一挙手一投足に気を配る必要があります。これは監視者にとって非常にコストパフォーマンスのよい監視システムです。寝ていても、遊んでいても、何をしていても被監視者に緊張を強いることができます。さらに、全くデタラメなタイミングで罰を与えれば、被監視者に対して大きな恐怖を与えられます。いつ、何を見られているかわからない、何が罰の対象になるのかがわからない、という状況です。監視者による支配を強めるためには、非常に有用です。審美的な価値基準は、ある種精神的なパノプティコンを完成させると言えるかもしれません。
もちろん、ここまで私が述べた内容はモデル化した思弁です。したがって、実際にはこれほど邪悪なものとなることはないかもしれません。しかし、上述したような危険性と暴力性をはらんだものであるということには意識的でなければいけません。であるからこそ、わかりやすさや明確さといった機能的な判断基準を導入すべきであるし、何をどうすればわかりやすいかといった下位基準を整備する労を厭わない態度が重要なのだと思います。「カッコいい」という価値基準の設定は非常に簡単で、パノプティコン的にコストパフォーマンスの良いですが、その怠惰に堕してはならないでしょう。
しかし一方で内田樹先生もおっしゃるように、修行や師弟関係における要諦は、その道程が示されないということにあります。己を開き、師の教えに投企することで、事後的に我が身の成熟が認知されるというメカニズムです。修行や師弟関係のもたらす教育効果は非常に大きく、計り知れません。ですが、師匠の指し示す先に向かって、疑問を挟まず己を陶冶するという振る舞いは、先述した審美的な価値基準と相似形をなします。しかし師弟関係と審美的価値基準による精神的パノプティコンの間には、千里の径庭が横たわっています。その違いは奈辺に存するのか。
それは、価値観、世界観、ヴィジョン、プリンシプルといった前提の共有です。袖口をつかんで、こっちの方がいいよねと必死で説く。今まで時間がない、余裕がないと捨て置かれていた「そもそも」を丁寧に手間と暇をかけて耕していかなければなりません。私たちは既に同質的、均一的なホモソーシャルに生きていません。暴力と抑圧でコストパフォーマンスよく「指導」することも好みません。もはや学校教育の現場では、道場やかつてのような師弟関係を教員の側が無邪気に望むことはかないません。私たちに求められるのは、ある種の辻説法なのかもしれません。手間暇をかける丁寧さと勇気を持たなければなりません。加えて内田樹先生が繰り返し述べるように己を開く、ヴァルネラブルな状態におくことへの歓待を示すということであると私は強く思います。ヴァルネラブルに学びへと己を開いた人を決して傷つけないということも、私たちは肝に銘じなければいけません。
最後に、英語についてもふれておきたいと思います(一応専門家なので)。野球のコールが、ほとんど英語化されていることに気がつきました。普段「アウト」だと思っていたものは、「ヒィズアウト」つまりHe's outでした。気になったので、講習の合間に尋ねると、女子選手の場合はShe's outになるということでした(当然ですが)。インストラクタの方や他の参加者の方は大変そうでしたが、私個人としては非常にわかりやすく、ありがたかったです。同じ事柄を違う角度から二度説明してもらっているようなものだからです。野球に関する知識のなさを思いがけず補うことができました。一番最初に習ったのが、「ハンズオンニーズポジション」というものだったのですが、最初は全く何なのかわかりませんでした。しばらく経って、これがhands on knees positionであるとわかった途端、どういった姿勢が求められているのかを理解することができました。これは非常に助かりました。ただ、基本的には野球部的発声でコールがなされるので、よくわからない部分もありました。野球部(特に高校)は非常に独特な発声方法をします。しかもその発声方法は、学校が違ってもほとんど変わりません。また高校野球の学校紹介などを見れば(もう何年も見ていないが)、驚くべきことに全国的にも似通っていることが観察できます。個人的は「野球部語」と呼んでいます。野球を離れた場面で、個々の生徒と話すといたって普通の話し方をします。つまりは、この野球部的発声はある種のエクリチュールと化していると私は理解しています。
脱線しましたが、(おそらく)英語が好きでもないのに(おそらく)ある時期から突然上部組織からコールの英語化を求められ、それでも習得し、怪訝な顔を向ける参加者に向かって、英文の説明をしているインストラクタの方々には敬意の念を持たざるをえません。これも憶測ではありますが、審判キャリアの途中からこうした英語化や国際化にさらされたのだろうと思います。その苦労は計り知れません。That's a catch.やI get the home if he comes.(これはうろ覚え)など、予想以上に「英文」が多いことに、驚かされたからです。これ以外にも様々な場面でSV構造や従属節を持つ英文などがコールされます。英語の言語的な理解なくしてこれらコールはできません。アウト、セーフ以外のイメージがなかった人間として、私は非常に驚きました。インストラクタの方々の習得に際して、学校での英語教育がどの程度寄与したのかは非常に興味深いところです。
英語教育関係者としては、これは英語習得においてチャンスなのではないかと考えました。自分の身近な事柄が外国語とつながると一気に理解が深まると考えるからです。ポケモンや遊戯王カードなどは、英語学習特に語彙学習において非常に有用であると考えています。競技人口が減っていると言っても、野球はかなり大きな競技人口を抱えています。その人々がもう少し英語に接続されると英語教育に資するのではないでしょうか。… if he comesは「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形」という高校英語での古式ゆかしき定番英文法です。That's a catch.のコールをする時、基本的には日本語なのでThat's ア catch.となってしまい、一気呵成にコールができないので、インストラクタ、参加者ともにコールしにくそうでした。これは日本語と英語の音構造の違いに着目し、トレーニングをする非常に良い機会となるような気がします。ただ、書きながら気づいたのは審判をするのは大人であるという点です。子どもたちの習得時、野球をうまく導入できれば効果的だと一瞬思いましたが、大人しか英語のコールをしたりその説明を受けたりすることはないと思い至りました。しかし、英語学習から離れてしまった大人たちが再び英語へと接続される機会となればよいなと思いました。小数点以下の桁数がどのくらいの割合になるのかはわかりませんが。
一方で、コールにおいて冠詞や前置詞、動詞があったりなかったりするのが恣意的であるので習得が難しいなと感じました。例えば二塁に行かせる時はYou, go second.ですが、一塁に戻す場合はYou, back to first.です。私は理解しやすくそして面白かったのですが、根本的な問題はほとんどの参加者にとってはよくわからない音声の羅列をコールさせられるので、理解することもできないし、覚えることもできないという点です。これは多くの人にとって非常に大きなストレスであると思います。英語に対する嫌悪感を増大させることは必至であり、少年野球の審判に対するハードルも上がります。これは競技人口の低減につながるのではないかと思います。
国際化の流れでの英語という説明がありましたが、自分の住んでいる地区内で審判でもするかくらいのモチベーションの人がほとんどです。小学生段階で国際大会に進む子どもの割合もごくごく小さいものです。もう少し気軽に始められるようローカライズした方が無難なのではないでしょうか。話がそれますが、野球では種目や年齢段階に応じてルールが異なるという点も驚きました。プロ野球だとこうなんだけど、学童軟式野球ではこう、高校野球だとこうといった具合です。私が関わるソフトテニスは小学生から世界大会まで全く同じルールの下にプレーします。ソフトテニスはユニバーサルなスポーツだなと思いながら(世界的には野球以上にマイナースポーツですが)、野球はローカライズ可能なのだからどんどんローカライズすればよいのではないかと思いました。国際大会を意識するのであれば、国際ルールがあればよいだけです。
思いがけず、英語が役に立つ経験でした。
参加者、インストラクタを含め、180人くらいが一同に会した講習会でしたが、ジェンダーバランスは異様なものでした。女性は(おそらく)一人だけでした。容易にこうした状況が予想される中で、それでも参加されていた方には敬意を示したいと思います。通常、200人弱のおじさんが集う場などほとんどありません。この状況が野球のホモソーシャル性を象徴しているようにも感じました。野球に限らずスポーツ一般に言えることですが、ジェンダーバランスを著しく欠いています。かくいう私も好きなサッカーチームの男子チームの動向は追いますが、女子チームの動向は追いません。スポーツ分野におけるジェンダーイクイティはかなり大きなイシューであると思いました。
駄文にお付き合いいただきありがとうございました。書きながら文章を書くのは、運動と同じであるという確信が深まりました。久々に書くとウォームアップとリハビリが必要です。言葉が湧き出てくる感覚を得るまでに時間がかかります。今回はほとんど四苦八苦しながら書きました。気持ちよく書けた部分はあまりありません。一部で言葉が浮かんでくる気持ち良い状態をえましたが、その尻尾をとらえることくらいしかできず、その状態を継続して書くことができませんでした。書いているうちに、いずれ戻って来るかと思うのでリハビリ的にこれからも駄文を書き連ねようと思います。