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「私の経歴書 1」 はじめての試練で仕事に目覚めるが、挫折は続く

大手電機会社に勤めていた。中堅社員になりたての頃、新しくやってきた上司に、「お前に仕事をやらせない」と罵倒された。

悔しくて、10分くらいしてからだろうか、再び上司のところへ行った。

諭された。

教えを乞いに行ったのがよかったのかもしれない。ただ言われてことをやっている歯車だということに気づいた。心理学とかを勉強しろとも言われた。

その上司に言われ、社内で一二を争う厳しい研修を受けることになった。地獄の研修とも言われる「IE=industrial engineering」研修だった。寝られない研修と言われていた。6か月間におよび研修で、実学中心だった。
自社工場で、工場幹部が本気になる工場の改善計画を3泊4日で仕上げプレゼンする。日中は工場の中で調査を行ない、夜、データ分析して、次の日のアクションを確認する。その夜にまたデータ分析し改善プランを作りプレゼン資料を準備する。寝る時間が取れなかった。この研修でも何度も講師に罵倒された。

いつの間にか仕事が好きになっていた。ツボがわかると、テーマはいくらでもあったし、やることはいくらでもあった。いつしか上司とも気さくに会話する仲になった。

はじめはIEr(インダストリアルエンジニア)だった

IEとは、日本IE協会によれば、

「IEは、人間、材料、および設備が一体となって機能を発揮するマネジメント・システムの設計、改良、設置をすることである。前記システムの成果を規定し、予測し、評価するために、数学、自然科学、人文科学中の特定の知識を利用するとともに、技術上の分析と総合についての原理と手法を併用する」

すこし小難しく聞こえるが、経営管理の問題解決に必要なエンジニアリングアプローチということであろうか。

インターネットが急速に普及し始めた1990年代、パソコン市場もそれに合わせるように急拡大、周辺機器も飛ぶように売れ始めた。
急伸長する生産数量に対応するため、海外生産を強化しはじめた。

マレーシアの現地企業で生産を始めることになり、サポートメンバーを送ることになった。すかさず立候補した。うまくできると思ったが、壁にぶちあたった。
なかなか生産数量が伸びない。総力戦で対応することになった。
少しばかりの挫折、うまく協力体制が築けない、言葉の問題もあったのかもしれない。

そんなとき、シンガポールの駐在員からしきりに呼び出されるようになった。後輩が担当していた仕事がうまく進まず、手助けするように求められた。
マレーシア側にはそれなりに人がいたので、空き時間を作ってはシンガポールに手助けにいくようになった。その仕事がうまくいったことがあってのことか、その後も支援要請を受けるようになった。
いつしかシンガポールが仕事場になった。

急激に伸びる生産量に対応する部品供給体制を作ることが仕事だった。ハードな仕事だったが、関係者の利害をうまく合わせて成果を上げることができるようになった。2~3年続いただろうか、基礎固めができシステマティックに仕事が運ぶようになった。そんなとき、専任駐在者を置くことが決まった。

それは自分ではなかった。

また、少しばかりの挫折、日本がメインの仕事場になった。日本に残る生産の面倒をみることになった。

楽しい時間はそう長く続かないものなのか。充実感を感じて進める仕事にも挫折の時はやってくる。  (つづく)

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