幸せはまるでガラクタのように
「私にとっての幸せとは何か?」
という質問に対して、私は明確な答えを持っていない。
「さぁ、今から1つだけ願い事を叶えてあげる!3、2、1、はい!!」
って言われたら、多分「えっ、えっ」ってなって、「1億円下さい!!」とかそんなことを口走ってしまうと思う。
まぁ、1億円貰えたらそれはそれで嬉しいけど、それが私にとっての一番の幸せかと聞かれたら、多分違うと思う。
1億円あっても多分不幸な時は不幸だ。
せめて100億円くらい願っておきたいものだ。
自分にとっての絶対的な幸せって何だろうな。
例えば、1億円がほしいなら、なぜ1億円がほしいのか。その1億円があることで何を成し遂げられるのか。
それは1億円を手に入れること以外で成し遂げられることではないのか。
以前勤めていた会社の上司が、「『なぜ』を3回繰り返す」ということを口癖のように言っていたのを思い出した。
久々にちょっとやってみる。
1.なぜ1億円ほしいのか
→ 1億円あったらオリジナルのミュージカルを上演したい
2.なぜオリジナルのミュージカルを上演したいのか
→ 物語を作ること、それを演じることが好き
3.なぜ物語を作ること、それを演じることが好きなのか
→ 自分以外の誰かになって、自分の思いや考えを表現したい。
別パターンをもう1つ
1.なぜ1億円ほしいのか
→ 1億円あったらじっくり勉強してもう一回大学に行きたい。
2.なぜもう一回大学に行きたいのか
→ 興味のあることを徹底的に勉強・研究してみたい
3.なぜ興味のあることを徹底的に勉強・研究してみたいのか
→ 自分の知識、教養を深めて、奥行きのある人間になりたい
…あ、何か泣きそうになってきたぞ。
多分私は、「自分の思いを伝えたいけど、今のままの私では聞いてもらえない」と思っているんだな。
話を聞いてほしいのか、私は。
それなら、
1.なぜ話を聞いてほしいのか
と、ここから更に掘り下げていくんだろうけど。
今回これを書いていて思ったけれど、自分の真の望みに向き合うのってめちゃめちゃ怖いね。
掘り下げていく過程で、公の場では口に出せないような、ドロドロとした醜い感情を目の当たりにすることもあるでしょう。
自分に向き合うってのはそういうことなんだろうな。
見たくもない自分の醜さと向き合い、ぐちゃぐちゃに絡み合った気持ちをひとつずつ紐解いて、最後に残ったものはものすごくくだらないガラクタかもしれない。
でも、それはきっと自分にとってはとても大切なものなんだろう。
「何その汚いの。捨ててしまいなさいよ」と言われたガラクタを、どうしても捨てたくないと親に抵抗して呆れさせた幼少期のように、理屈ではなく絶対に譲れないものかもしれない。
そして多分それは、たったひとことで言い表せるくらいシンプルな形の「幸せ」だと思う。
昔、夏休みこども電話相談室で、「流れ星に願い事を3回唱えると願いが叶うのはなぜですか?」という質問が届いた時、「流れ星が流れた瞬間に3回も願い事を唱えられるなら、常にそのことを考えているということだから、それだけ思い続けている人の願いなら叶うと思う」という旨の回答をした先生がいたという話を聞いて、それがずっと忘れられない。
話を聞いてほしい「なぜ」を掘り下げるのはまだちょっと怖いので、今回はここまでにするけど、時間をかけてゆっくり自分を紐解いて、いつか私も流れ星に唱えられるようになりたいと思う。