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夏草のひとりごと #8 要不要は結局後になって決まった

4歳くらいの時、引っ越しをする前に親がおもちゃを要らないものとお気に入りに分別してくれた。

そして引っ越し先で袋を開けると要らないものに分別したはずのものが大量に入っていた……。どうやら捨てる方を間違えて持ってきたらしい。

まだ4歳だったこともあってショックは無く、ただ、「あれ? あの好きだったおもちゃどこだろう」と思っていたことは何故かハッキリ覚えている。

しかしそれで駄々をこねたり、泣き喚いたりはしなかった。
どころか、一度は不要にしたもので楽しく遊んでさえいたのだ。

流石にもう遊ぶことはないが、未だにこいつで沢山遊んだなあというものは実家に残っている。

おもちゃに限らず、人がその時その場で決めた要不要なんて全然その後のすべてを決定することないなーと思った。

そりゃ、大事な決断というのは間違いなくあるだろう。
でもそれだけが全てじゃない。

出会いがあれば別れがあり、別れがあるからまた出会いがあると言った風な論法がこの出来事を思い返すといたく身に染みる……。

ラボに居た頃、教授がこんなことを言った。

「人生後悔はいくらでもする。でもなるべくならいい後悔をして欲しい」

後悔はそのままの意味で後から悔やむことだ。にもかかわらずいい後悔があるというのか。

おもちゃのエピソードになぞらえて言えば、好きだったものばかりを持ち越さなかったけれど、あまり好きじゃなかったものが今でも好きになった。これっていい後悔なんじゃないだろうか。
(勿論好きだったもの捨ててしまったことはショックとまでは言わないが残念だから後悔はある。大人になった今ね)

いいことばかりムシャムシャ食べてるだけじゃ人生面白くならないって本当に不思議だ。苦渋の何がいいんだろうかって点を人は見事に受け入れちゃう。

形而上学的ってやつ?(知ったか)

辛かったことは沢山あるのに、今なんとかやっていけてる。

幸せは毎度訪れて、また辛いこともあって繰り返すね。
自分にとって必要なものは後になって決まる。

ジュディマリのそばかすでも聴いて心安らかに今日は寝ようじゃないか。

ハハハ。

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