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身につけた正義感で、自分や誰かを潰さないために

「がんばること」を、褒められてきた。がんばれることを、美徳とされつづけてきた。

裏を返せば、「がんばれないこと」はダメなこと、ともいえる。両者がイコールではないことを、昔のわたしは知らなかった。

がんばれること、そのこと自体は何ら悪ではない。がんばっている人のがんばりを斜に構えて捉えた言葉を投げつけるのは、それはそれでダサいな、と思う。

けれども、がんばれないことを殊更「ダメなこと」とするのも、またちがう。

昔、こんなnoteを書いている。

「がんばらない」というよりも、「“がんばっている”という意識がない」といった内容だ。

これは本当にそのとおりで、だからわたしはnoteを書くときに何もがんばってはいないし、仕事でインタビューや取材に行くことも、何ら「がんばって」はいない。

……が、がんばっていないと表明すると、それは時に「いや、真剣にやれよ」と捉えられる。(あえて補足すると「がんばっていない」=真剣じゃない、ではない)

そのため、「がんばってるね」と言われたら、(それが仕事であるならば特に)「ありがとうございます」と応えている。でも、結果として自己評価としても他者評価としても良い仕事ができたときって、たいがい「がんばっている」意識が希薄な気もしているのだ。

そんなことを言えば、「甘ったれだ」と言われるのかもしれない。「より楽しいことを」「より心地がいい方向を」選びたいなんて言うと、「そんなの成長できないよ」と言われるのかもしれない。そんなことを思いつつ、実はそう囁いているのは、他の誰でもなく、「がんばることこそ絶対的正義である」と信じて疑わなかった昔のわたしなのかもしれない。

こう思うのは、「がんばる」から受け取っているわたしのイメージが、「耐え忍ぶ」「我慢」「つらいことを乗り越えて」だからなのかもしれない。これが、もっと軽やかな「がんばろーね!」だと、気軽に気楽に受け取れるし、「がんばってるな、自分」とも思えるのだから。

そして、「耐え忍ぶことこそ“がんばる”である」認識も、長年の経験から積み重ねられた結果、強化されたものなのだろう。

がんばれない事態に陥ると、それはもう何度も繰り返し経験してきているにもかかわらず、懲りずに毎回必要以上のダメージを喰らってしまうのは、このわたし自身の認識のせいなのだろうなあ。

何が怖いって、この刻み込まれた価値観は、自分だけではなく、身近な誰かのことをも苦しめる可能性があることだ。

同じく、「継続すること」を是とするメッセージを伝えられ続けた結果、仕上がったのは「やめること」を必要以上に否と判断してしまう今のわたしだったりする。

一方を褒めたり認めたりするのは、意図せずとももう一方を否とするメッセージを伝えてしまうのだろう。……いや、もしかしたらこれも「認知の歪み」のひとつなのかもしれないけれど。

ちょくちょく「がんばれなくなる」子どもを見ていると、言葉に気をつけなければいけないな、と身につまされる。

これから何かを始めることがあろう子どもに、始めてみる前から親が退路を断つような真似をしないよう、気をつけたい。やらかしそうだからこそ、本当に気をつけていたいと思う。

自分が決めて始めたことをなんでもかんでもすぐにやめるのは、やっぱりどうなのかという思いもあるにはあるのだけれど、「なぜやめたいのか」「なぜやめるのか」を自分なりに考えた結果であるならば、その答えを尊重できる親でありたい。

ひとつの正しさを印籠のように振りかざし、正しさに沿うことで安心して生きてきたけれど、反面、そこから逸脱することにひどく怯えるようになってしまった今のわたしだからこそ気をつけたいし、気をつけられるはずだよ、と自分に対して言い聞かせている。

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卯岡若菜
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