下がって上がって、の雑記
少し前に悲しいことがあった。気にしないでいよう、勘違いかもしれないしね、なんて言い聞かせてやり過ごしてきたのだけれど、どうやら勘違いではなさそうで、あらためて落ち込んだ。
本当は腹を立てなければならないのかもしれないけれど、それよりも悲しかった。誰かに詳しく話すこともできなくて、しょんぼりしている。なんとなく「誰かに話すべきことじゃないんだろなあ」と思ってしまうのだ。もっともっともーーっと時が経って、自分で笑い話にできるようになったなら、そのときには話せるのかもしれない。いつだって、そうだったから。
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来週には追加した本棚と一目惚れした本箱がくる。今の楽しみはそんな感じ。ずらりと本や漫画が並べられているのを眺めるのが、とにかく昔から好きなのだ。
ちなみにワークスペースの写真を見るのも好き。最近は、リモートワークにより自宅オフィス作りをする人が増えて、「ワークスペース」とか「PC周り」とか「書斎」とか「自宅オフィス」なんかのタグでInstagramを見るのがちょっとした楽しみ。
そうそう、ほしいなあと思っていたデスクライトが売り切れていた。ないならないで過ごせるから急いで買いはしなかったのだけれど、きっと机と合ったろうになあと思うと残念な気持ちになる。また入荷するだろうか。(購入資金を貯めねばならないけれど)
楽しいことに目を向けようとしたら、図らずも悲しいことを思い出してしまった。なんてこった。
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とはいえ、何だかかんだと穏やかに過ごせているとは思う。穏やかさを保っていたいと意識してもいるけれど。
今じゃなくても、いつだって危うい不安定な綱の上にいることに変わりはない。がくんとくるとき以外は平気だ。というか、ある程度は慣れてきた。足掻いてももがいても、わたしはやっぱりわたしでしかなかったから、折り合いをつけて「ま、それなりにうまくやっていきましょうや」としかいえないのだ、うん。
悲しみも落ち込みも、そのときはそのまま引き受けていたほうが、そのあと健やかに浮上できる。……と頭ではわかっているのだけれど、なかなかどうして長年染みついた反射って難しいね。
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「こういうのはダメ」という言葉を目にして、過去のわたしが「こういうの」だったために、また落ち込む。厄介だな。少なくとも、これはわたしを指しているわけじゃないのにね。
ただ、自分のなかでも「あれはダメだったな」と思っているからこその落ち込みだったのだろう。いろいろ足りなくて、いろいろ至らなくて、いろいろ情けなくて、ああ、もう。
「そもそもそんなお出来のいい人間じゃないんだよ、自分のこと買いかぶってんじゃないよ」と思うのだけれど、「お出来がいい子」として扱われ、またそのようにあろうとしてきた幼少時代が足を引っ張る。縛っているのはわたし自身だ。とうの昔に「そんなに出来やしない」ことなんて、嫌になるほど実感したのにね。嫌な方面に三つ子の魂が働いている。こんな魂、何かにくれてやりたいよ。
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お風呂に浸かる。もう長らく岩盤浴に行けていない。年始が最後か……。次はいつ、行けるのだろう。
いろんなことがあってもなくても、嬉しくなったり悲しくなったりするのはいつものことで、今や「いつものこと」が大変恵まれているとされる世の中なのだから、わたしは恵まれているのだ。
(とはいえ、「いつものこと」が恵まれていることこそ「いつものこと」で、非常時だからみんなの意識に現れているに過ぎないと思っているよ。大切なことは、いつだって目に見えないんだよね、王子さま)
今日も生き抜きました。それだけで花丸の日があったっていい。きっと明日もいい日だよ。何だかんだありつつも。