【日常スケッチ】午後5時から6時、池袋からの帰り道
久しぶりに、午前にも午後にも取材が入っていた。休校中の子どもは、夫が出勤する昼前から夕方までの半日ものあいだ留守番していたことになる。恐らく、今日の宿題を終えたあと、夫のマンガを読みふけっているのだろう。何だかんだで、子どもはたくましい。わたし自身、留守番中ひとりで過ごす時間が好きな子どもだった。
午後5時前の池袋駅は、そろそろ混み合い出す頃合いで、しかしまだラッシュと形容するには甘い空間的余裕があった。
なんというか、ひとが醸し出す雰囲気がまだまろやかなのだ。ぎゅうぎゅう詰めの電車は、乗り合わせるひとから人間性を削り取っていくのだなあ。あの殺伐とした空気には、何度経験しても慣れることがない。
なで肩であるうえ、恐らく前に傾いているわたしの肩は、リュックサックの前掛けスタイルには不向きで、だからわたしはドア付近に立てるときには極力ドアに寄っている。背負ったままのほうが、かえって迷惑にならないのではないか、というほどにずるずるズレては抱え直す、を繰り返さなければならないからだ。
埼京線は、板橋駅で運良くドアスペースが空き、わたしはいそいそと移動した。今日はカメラバッグも抱えていたから、リュックサックを背負えたのはありがたかった。
スマホで連絡を入れたり返したりしながら、ぼんやりと外を見たり車内を眺めたりする。個々の背景はわからないけれど、とりあえずみんな今を精一杯生きたり、何とかやり過ごしたりしているのだよなあ。
◇
ふわりと「何もできていないなあ」という思いが首をもたげる。正確には何もできていないことはないのだけれど、それでもその思いは繰り返し繰り返し姿を現す。
「できていない」のは意思薄弱のせいだと思い、ひとり勝手に落ち込む。それでも今は過ぎるから、今できないことはできないし、できることをひとまずやっていくしかないんだよなあ。それが、自分にとって「何かをしている」とカウントできないことだとしても。
時間は有限。
タイムイズマネー。
論より行動。
いつやるの? 「今でしょ」……。(古い)
まあ、そうなんだけど。もっともなんだけど。
でも、「何かやらなきゃ」「何かをしていなきゃ」「何かを形にできていなきゃ」は、度がすぎるとかえって「何もできなくさせる」なあ、なんて思う。
言い訳かもしれないけど。どんな状況でも、できる人はできるのだろうし。
ただ、わたしはそのひとではない。ダメダメだろうがポンコツだろうが、それがわたしであって、そんなわたしなりに死なない程度にやっていくしかないんだよなあ。
この「死なない程度」はオーバーでも何でもなくて、ひとは思っているよりも頑丈で、だけど思っているより簡単に死ねもするのだと思っている。生命的に死ななくても、精神が死んだら個人的には死んだも同じだったりするし。
◇
何が言いたいって、別に何かを言いたいわけではないのです。
中身のあるもの、有益なもの、そうしたものではなく、どこかの誰かの何とはない日記のような文章が、わたしには役立つものになることがある。何度も勝手に救われた。そして、そんなただの独り言のような文章を、わたしも長年垂れ流しつづけている。
ノートやチラシの裏に書き捨てていればいいようなものでも、あえて見える場所に書き残す。漂流した文章は、巡り巡ってまたわたしのもとに届くかもしれないし、どこかの誰かのもとに行き着くのかもしれない。
もしかすると、どこにもたどり着かないかもしれないけれど、それはそれ。誰かに読ませるために書きはじめたわけではない人間だから、ひとり放流するだけの文章を書くのは、今でもやっぱりどこか楽しい。
◇
電車に揺られ、最寄駅で降りる。ホームで、男性が「ほんと、すんませんでした!」と大声で誰かに謝っていて、思わずびくっとなった。何が起きたのか、何も起きていなかったのか、わたしにはわからない。ただ、その事象がわたしを過ぎ去っていく。それだけだった。
バス停に向かう。雨脚が少し強まっていて、ドット模様の傘がバタバタと大きな音を立てる。列に並ぶ。バスが来る。乗り込み座った席で、途中かけのnoteを再び開く。書く。時折ぼんやりと外を眺めながら、ことばを拾い上げるようにして、ただ書く。
午後6時前。バスのエンジン音は、雨の夜によく似合っている。