思い込みの檻

バイタリティがある。エネルギッシュ。フットワークが軽い。

どれもこれも、最近よく言われる言葉だ。言われるたび、おもしろいなあ、と思う。そうかあ、わたしはバイタリティがあるように見えるし、エネルギッシュに見えるし、フットワークが軽いように見えるんだなあ。



あなたはさ、自分のことを決めつけすぎてると思うんだよ。自分が思う自分だけが「自分」じゃないよ。

高校時代にすきだった人から言われた——正確にはメールだから送られた——言葉だ。

「これがわたしのキャラだから」と思い込んで、自分で自分の首を絞めてない?と彼は言った。耳が痛かった。思い当たる節があったのだ。

自分のことを知っているのは、何も自分ひとりではない。思ってもみない評価をされたとき、「この人はわたしのことをわかってない」と思ってしまってはいないだろうか。確かに理解されていないのかもしれない。だけど、演じていないのに思ってもみない見られ方をしているのなら、自分に見えていない自分を相手は見つけてくれているのかもしれない。そんな風に、今は思う。



この人はこういうキャラだから。この子はこういう性格だから。

自分で自分を決めつけるように、人を決めつけてはいないだろうか。人は変わる。根っこは変わらなくても、上の部分は大きく変わるものだ。

変化をネガティブに捉えてしまうと、誰かの変化を裏切りだと捉えてしまう危険性がある。

そんな人だと思わなかった、というのはとても独りよがりな発言だ。そんな人だろうがあんな人だろうが、その人はその人だ。本人が変わったのかもしれないし、これまで見えなかった一面がはじめて見えただけかもしれない。それらをすべて放り投げて失望するのは、ちょっとさみしい。



変わることが怖かった。誰かが変わってしまうことが嫌だった。変化はさみしさを孕んでいるから。いつか訪れるであろう別離を思い起こさせるから。

んー、だけど、やっぱり変わらないこともそれはそれで嫌なんだな。だって、昨日よりマシな自分になりたいじゃない。

ただ、人ってものは案外根っこは変わらないのだ。話を聞いていればわかる。ああ、それが根っこだからそちらに変わったんだなあと。

根っこが変わらない人を、好ましいなと思う。根っこを大切にしながら見える部分を恐れずに変えていく人に対しては、さらに好感を抱く。ただ、変わっていく本人は変化を自覚していないことが多いようにも思う。

決めつけずに、自由に。自分にも他人にも、そんなスタンスでありたい。

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卯岡若菜
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