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フィルター越しの欲求

「これがほしい」「あれがやりたい」「どこそこへ行きたい」「あれが食べたい」

人間の欲求は果てしない。欲求があるからこそ、物事へのモチベーションが上げられるという側面もある。

ただ、この欲求は、正しく育まれなければ健全に持てないものなのかもしれない、と思っている。


何度か話したことがあるけれど、わたしは何かを選ぶとき、真っ先に値段を見るくせがある。それは自分のお小遣いをもらい始める前、幼少期から刷り込まれてきた習慣だ。そのくせは、服でも外食メニューでも、どういう類のものであれ染みついている。

幼いわたしに親が何かを言ったという記憶はないから、わたしのなかでは、あくまで「自然に」そのようにものを選ぶようになった、ということになっている。


そもそも「高い」「安い」という判断基準も曖昧だから、「これに〜円は高いor安い」というよりも、「〜円が高いor安い」になりがちだ。材質・素材がいいものの値段が上がることは、まだ良さがわかるのだけれど、そのあたりの違いがイマイチわからないものは、それが高いのか安いのか、よくわからなくなる。


そして、こうした値段というフィルター越しにものを見て選択してしまうくせは、本来の欲求を見えなくさせてしまった。

たとえば、「本当に食べたいものを選んでいいんだよ?」と誰かにご馳走になるときに言われても、わたしはどうしても自分のなかに作った「お値段妥当ライン」のなかにある「食べたいもの」を選ぶ。

着たい服も同様。おそらくわたしの育った感覚での「安い」は、プチプラどころの騒ぎじゃないのだろうなと思っているので、もう少しラインを緩めたらいいのに、それがなかなかどうしてできない。結局、その服を本当に着たかったのか、妥協案で選んだのか、自分のことなのに、よくわからなくなる。

やりたいこともそうだ。昔から、あまりにもお金がかかるなあと思うことは、無意識に除外してきている気がする。意識していなかったので我慢している感情もなかったけれど、物事によってはもったいないことをしていたに違いない。(唯一、4歳で「やりたい!」と言い始めて5歳から習い始めたピアノ・エレクトーンだけは、お金のことは一切頭になかったけれど)


「これを食べたい」と言ったときに、親が見せる一瞬の顔色を、わたしはもしかしたら察していたのかもしれない。

服を買うときには、実際に「高くない?」と言われたことがあったな、と思い出す。

実家は経済的に困窮した時期があったため、母はそれが緩和されたあとも怖くて生活レベルを上げなかったらしい。だから、貧困を経験したというわけではないけれど、節制した生活を送ってはいた。

「これがいい」という欲求をそのまま出すと、受け入れられないのではないか。受け入れられないと、自分の欲求がまるで良くなかったもののように思えて傷つくから、先回りして否定されないものを選ぶようになったのではないか。そう、思っている。


息子にせがまれて小児科でアニメ絵の昔話を読みながら、「欲張りだからバチがあたった」という内容の多さにくらくらした。

「贅沢は敵だ」とまでは言わないけれど、昔話はどれもこれも、「慎ましさが正義」だ。他人を貶める強欲はもちろん間違っているけれど、欲しがらないことがいいことなんだよ、と繰り返されるのも、またどうなんだろうと思う。

「欲しい」と思う気持ちは正しい。その「欲しい」のためにがんばることは素敵だ。そう唱えてほしい、なんて思う。


わたしの欲求問題は、人生のほとんどをこの調子で生きてきてしまったので根深いのだけれど、せめて子どもたちには自分のこころが本当に「欲しい」と思っていることを見極められるようになってほしいなあ。

……つい、「え、それ食べるの……?」と言ってしまいそうにはたびたびなるのだけれど。



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卯岡若菜
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